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日刊サイゾー トップ > 連載・コラム  > 外国人「収容」の実態を暴いた映画『牛久』
稲田豊史の「さよならシネマ 〜この映画のココだけ言いたい〜」

映画『牛久』は外国人「収容」の実態を暴き、ダブルスタンダードな日本を追い込む

ただし、入管側の言い分は聞いていない

映画『牛久』は外国人「収容」の実態を一方的に暴き、政府のダブスタを追い込むの画像2
©Thomas Ash 2021

 非常に意義と観ごたえのあるドキュメンタリーだ。収容者たちによる涙ながらの窮状訴えはどれも心を打つし、ある収容者が複数の係官によって身体を力ずくで押さえつけられている動画(裁判提出用に公開されたもの)は、BLM運動の契機となったジョージ・フロイド事件の「呼吸ができない、助けてくれ!」を彷彿とさせる。収容者の扱いを問題視した立憲民主党・石川大我議員が、森まさこ法務大臣(当時)に詰め寄る国会での一幕もある。

 全編を通じて、外国人監督と外国人収容者の目に映る「日本」という国の一側面が、ありありと描出されている。映像作品としての満足度は総じて高い。

 しかし、一点だけどうしても気になった。本作には、監督自身が“相手方の言い分”を直接聞くくだりが一切ないのだ。

 たとえば、東日本入国管理センターに「収容者の扱いについて問題があるのではないか」と取材やコメントを求めることができたのではないか? 監督省庁である出入国在留管理庁(入管庁)や、その上部組織である法務省に、法制度に問題がないかを問うこともできたはずだ。

 無論、それらは十中八九、回答を拒否されるだろう。だが、それは問題ではない。相手にも発言のチャンスを与えておくことが大事なのだ。「敵対陣営に取材を申請したが、断られた」くだりを本編に入れ込むだけで十分だ。その手続きを踏むだけで、ドキュメンタリーとしての説得力は飛躍的に上がる。方法はなんだっていい。封書だろうがメールだろうが電凸だろうが、マイケル・ムーアに倣ってアポなし突撃だろうが。むしろドキュメンタリーとして勢いが出る。

 念のため言っておくが、作品の政治的立場が「中立」だとか「客観的」である必要など、まったくない。むしろドキュメンタリーは監督の主観で撮るべきだ(というか恣意の入らない「中立的な」ドキュメンタリーなど、原理的に存在しない)。

 しかし、その主観に説得力を帯びさせるのは、やはり「相手にも発言のチャンスを与える」手続きではないだろうか。鍵付きのTwitterで持論が粛々と展開されるよりも、公開討論の場で反論に堂々と応じるほうが、発言者への信用度は高まる。

 そう感じた筆者は、試写会場を訪れていたアッシュ監督本人に直接質問してみた。なぜ入管の声を拾わなかったのですか?と。監督の回答(大意)はこうだ。「入管が世の中に声を届ける方法はあるが、収容者が声を届ける術はない。だから限られた尺の中では収容者の声を優先した。映画が2時間も3時間もあったら誰も観ないでしょう」

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