『鎌倉殿』で描かれなかった北条政子の“駆け落ち事件”と、頼朝挙兵時の兵数問題
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頼朝の挙兵時の兵数「24人」の少なさは事実?
第4回の放送では、頼朝挙兵時の兵の数にも同じようなことを感じました。ドラマでは頼朝の挙兵時、つまり山木兼隆を夜襲する「山木攻め」の時の兵数について、24人としていました。『源平盛衰記』によると、頼朝の兵力は「本隊」が85名(うち北条ファミリーからは4名)、援軍5名の合計90名だったとなっており、ドラマの兵数は、歴史的な書物の記述よりかなり少ないことになります。
ドラマでの頼朝は、兵が思ったより集まらないと困惑し、「ちょっと! 兵が少なすぎないか」「話が違うではないか」などと慌てるので筆者は思わず吹き出してしまいましたが、最終的に集まったのが「24人」という設定は、こうした挙兵直前の様子をコミカルに描くための演出の意味もあったのかもしれません。
もっとも、中世史の大家・奥富敬之氏は「30~50騎」しかいなかったとの見解を出していますし、「30騎よりもさらに少なかった」とする説もあります(細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社学術文庫)。
その根拠となるのは、ドラマでも描かれましたが、「佐々木兄弟」の4名の到着の遅れをめぐってひと悶着あったとわかっているからです。『吾妻鏡』によると、頼朝は四兄弟が来ないので「いよいよ人数なきの間(=人手不足がいよいよ深刻なので)」といって、挙兵の延期を希望したといいます(治承四年八月十六日の条)。
“史実”では、佐々木四兄弟は「大水(=川の氾濫)」を理由に到着が遅れたのですが、これにより山木攻めも予定より遅れ、夜間の奇襲攻撃になったのだとか。たかが4名、されど4名……。しかし、“それだけ”で延期を考えるほど、頼朝たちが「人数なき」状況にあったことは事実なのでしょう。
多くの兵が集まったとする『源平盛衰記』の90名も、実際は戦のプロである武士だけでなく、彼らの家の「雑色・下人」(=「召使い」に相当し、戦闘には通常加わることがない人々)などが合算された数字らしい(細川重男、前掲書)と聞くと、さすがに仰天してしまいますね。
いくら「山木攻め」を成功させるのが緒戦の目標とはいえ、「人数なき」にもほどがあります。『鎌倉殿』では、北条義時が周囲に流されるタイプの主人公とされますが、史実では頼朝のほうが、「イヤだ」と言いながらも周囲に押し切られてしまうような人物だったのかもしれませんね。
「山木攻め」の時、頼朝は34歳(数え年)です。そして史実の時政は、まだ43歳でした。当時ではすでに中高年の域ですが、無茶を言い出す若さもまだ十分、彼には残っていたと思われます。そういうアクの強い人々と共に戦うなかで頼朝は成長し、名実ともに「武家の棟梁」になっていくのでした。
なお、北条義時は、頼朝から「穏便」と評されていたと『吾妻鏡』などで記される一方、現代の歴史関係者の評価では、“ムッツリ型の陰険な男”とされがちなことを読者にはお伝えしておきます。今後の放送で、彼らの成長がどう描かれるか、楽しみですね。
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