『鎌倉殿』で描かれなかった北条政子の“駆け落ち事件”と、頼朝挙兵時の兵数問題
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政子の“駆け落ち”事件がドラマでカットされた事情
ドラマでは、伊東祐親(浅野和之さん)が「政子を(山木)兼隆様に差し出せ」と言う場面(第3回)こそありましたが、政子が山木のもとに嫁がされ、頼朝のもとまで逃げ出すといった肝心の部分がオールカットされたのは、近年の歴史学において、このエピソードを「後世の創作」として否定する風潮があることが影響したのでしょう。しかし、せっかく演技派の小池栄子さんを政子にキャスティングしているのですから、実にもったいなかったと思います。
政子の“駆け落ち”事件が、最近の歴史学者に否定されている理由は、大きく分けて2つあります。
(1)この事件より以前に、政子は頼朝との間に長女・大姫を生んでいたと考えられるため(ちなみに「大姫」とは長女という意味で、実名は不詳)。
(2)山木兼隆が「伊豆目代」という高い地位に就いたのは、頼朝挙兵の直前にすぎない。それまで山木は都からの「流人」(※罪の詳細は不明)にすぎず、北条時政が自分の娘を差し出すという配慮を見せねばならないほどの人物ではなかったと考えられるため。
しかし筆者には、この2点はいずれも、政子の駆け落ち事件は創作だったと否定できるほどの説得力を持っていないと思われます。
(1)についていうと、この当時の結婚は、頼朝と八重(新垣結衣さん)の関係を見ていても明らかなように、かなり流動的なんですね。子どもが生まれたからといってそのカップルが正式な結婚をしているとは限らず、曖昧な関係でいることを家族が容認しているケースだってたくさんありました。別れたからといって、現在のように役所に離婚の書類を届けるような制度も風習もなかったので、将来的に復縁することも難しくなく、当時のカップルの関係性は不明瞭で流動的なものだったのです。ドラマで八重が、頼朝と政子の関係や、彼の今後の身柄についてやけに気遣っていたのも、復縁の“野心”を彼女が失っていない証しだと筆者には思われました。
(2)についても、山木兼隆が要職についたのがたとえ頼朝挙兵の直前であったところで、 “問題の男”頼朝に一家の大事な娘を与えておくより、平家方のより高い地位の男性と正式に結婚させるように仕向けたほうが得だと北条時政が判断しても不自然ではありません。
明治時代以前の日本では、結婚にあたって“処女性”は重視されず、(子連れの)女性の再婚も普通でした。そういう時代だったからこそ、政子が山木の館を自らの意思で抜け出し、愛する頼朝のいる伊豆山権現まで逃げたという事件が“スキャンダル”ではなく、“美談”として鎌倉幕府の公式史である『吾妻鏡』にも好意的に採用されたと考えられるのですが……。
ただ、時政が政子を山木と結婚させようとしたことが事実だったなら、その直後に「自分の娘を嫁がせようとした男を、時政が攻める」という異様な展開があったことになり、駆け落ち事件の事実性についての疑問は当然、出てきます。
しかし、当時の関東(坂東)の武士たちは、平家と源氏の勢力のどちらにつけばより利益を得られるかを冷徹に判断せざるを得ませんでした。時政も、政子を山木に嫁がせようとした時には平家方の山木の勢力に入る予定だったが、家族や知人のアドバイスで「頼朝を担ぎ出し、山木を討つほうがおいしい」と気づき、短期間のうちに判断を覆すことになったのかもしれません。「武士に二言なし」という言葉がありますが、この精神は、実は主に江戸時代に培われたもので、鎌倉時代、とくに源平時代の武士の間では重視などされていませんでした。もしかすると時政は、政子に「お前もワシの娘なら、自力で山木の屋敷から逃げだせ」などと伝えてみたところ、逃げのびたまではよかったものの、頼朝のところに行ってしまったので、ふたりの結婚を正式に認めざるを得なくなったのかも……。そうだとしても、こうした顛末は『吾妻鏡』で採用されることはなかったでしょう。
脚本の三谷幸喜氏は、『吾妻鏡』を『鎌倉殿』の原作だとしていますが、ドラマはその“原作”をも時に大胆に無視する内容になっていきそうです。もちろん、他の古文書の内容も軽やかに踏み越えてしまいそうですが……。
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