父・後白河法皇に愛されなかった以仁王と、父・時政に愛された「江間四郎」北条義時
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『鎌倉殿の13人』も第3回の放送を終了したところで、徐々に物語が動き始めた感覚がありますね。夢に現れた後白河法皇(西田敏行さん)に対し、金縛り状態の源頼朝(大泉洋さん)が「揺らさないで!」と叫ぶシーンには笑ってしまいましたが、平家も源氏も、この後白河という“食えないオジサン”に、名実ともに“揺さぶられた”のがこの時代ともいえるでしょう。
治承3年(1179年)、反・平家の動きを見せた後白河法皇は、怒った平清盛によって京都から福原(現在の兵庫県・神戸)に連行、幽閉されてしまいます。後白河法皇は“朝廷のドン”の立場を追われ、代わりに清盛の息がかかった高倉天皇(後白河法皇の第七皇子)が朝廷を取り仕切ることになりました。高倉天皇は翌年、清盛にとって孫にあたる幼少の安徳天皇に譲位し、高倉院となって院政を行うことになります。
当時の朝廷のしきたりでは、天皇は一人だけですが、院=上皇は何人存在してもかまいませんでした(院=上皇が出家すると法皇と呼ばれることになります)。天皇在位中は衣食住すべてにおいて存在する厳しいしきたりに従わなければならず、睡眠中でさえ冠を外すことは許されません。平安時代の天皇たちの在位期間は平均すると約12年(京都大学文学部国史研究室編『日本史辞典』東京創元社)と比較的あっさりと譲位していったのは、院=上皇となって“自由”を手に入れるためだったとも言えるのです。
後白河法皇の失脚にともない、彼の第三皇子で、もともとは僧籍に入っていた以仁王(もちひとおう)は、財政基盤である所領を平家から奪われてしまいます。
以仁王は後白河の皇子ではありましたが、父母の関係が悪化したことから目をかけられることなく育ち、比叡山・延暦寺で出家していました。ちなみに藤原定家との“関係”でも知られる有名歌人・式子内親王は以仁王の同母妹で、彼と同じく不遇の皇女でした。
父親である後白河からは目をかけてもらえなかった以仁王ですが、最雲法親王という人物からは大事にされました。最雲法親王は以仁王と同じように、父帝(堀河天皇)からさしたる寵愛を受けられず、その結果、出家せざるをえなかった人物でした。ここで注目したいのが、以仁王の所領は最雲法親王から受け継いだものであり、実父・後白河からもらった土地というわけではない点です。
自分を大事にしてくれた最雲法親王が亡くなると、以仁王は、皇族として生きていけるだけの財政基盤、つまり所領を手にできたので、それを“元手”に自ら還俗、つまり僧侶を辞め、京都の貴族社会に戻ってこられました。しかし、その恩人から受け継いだ所領を、自分を愛してもくれなかった父親(=後白河)の“反・平家の罪”に連座されて奪われてしまうとは……。そりゃ、挙兵もしたくなりますよね。
このように、以仁王は平安時代に数多くいた不遇の皇族の一人にすぎなかったのですが、その挙兵時には、鳥羽法皇(当時すでに故人)の最愛の娘で、父宮から莫大な富を相続していた八条院(暲子内親王)という女性皇族から強力にバックアップされていました。
ドラマでは名前がセリフの中で出てきた程度でしたが、八条院は当時の京都でもっとも力を持っていた女性皇族の一人です。そして以仁王は、八条院の腹心の女房(=高級女性使用人)の一人である三位局との間に子供を二人も授かっていました。以仁王の挙兵が失敗した後ですら、平家は八条院の“身内”に手出しできなかったために、以仁王の子供たちの命は助かります。二人の子供のうち、兄のほうは僧籍に入るしかありませんでしたが(のちの安井宮道尊)、妹は出家せずに済みました。
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