Aマッソ『奥様ッソ!』フェイクドキュメンタリーとしての美点と欠点
#Aマッソ
バラエティならではの構造を逆手に取った仕掛け
しかし、ここに『奥様ッソ!』最大の罠がある。裏設定のわかりやすさから、筆者も初見時は「これはフェイクドキュメンタリー初心者向けの番組かな」と軽んじていた。だが、本作は劇中のテンプレじみた平板な展開とは裏腹に、スタジオやVTR内の小物や衣装といった細部に、執拗なまでの伏線を仕込んでいる。
実はこの練りに練った小道具などから導かれる結論こそが『奥様ッソ!』最大の大仕掛け。つまり、本作は初見でもわかる裏設定によって初心者向けフェイクドキュメンタリーを装いながら、「画面に映し出された小道具などから考察する」というフェイクドキュメンタリー慣れした人だけがたどり着ける大ドンデン返しを用意しているのだ。
この大ドンデン返しが素晴らしいのは、本作がバラエティ番組のフォーマットをも巧みに利用しているからだ。
そもそもドキュメンタリー風の映像を盛り込んだ”バラエティ”というフォーマットは、フェイクドキュメンタリーとしてはマイナスに働きやすい。
ドキュメンタリーが(編集などで一定の恣意性が介入するものの)”真実を映すもの”とされているのに対して、バラエティはある種の”演出”が前提となっている。フェイクドキュメンタリーは「ドキュメンタリーが嘘を映し出すこと」自体に驚きや面白さがあるが、視聴者はバラエティ番組に対して一定の”演出=嘘”が含まれている前提で視聴する。そのため、”嘘”がわかったところでドキュメンタリーほどの驚きは生じにくくなる。
しかし、『奥様ッソ!』は、このバラエティについてまわる演出という名の”嘘”までも作品の中に取り込んでいく。
本作で視聴者が”バラエティ的な嘘”に強く違和感を覚えるシーンとして、Part2の終盤で村長との儀式(性的交渉の強要を匂わせる)を嫌がる少女が逃げようとするシーンが挙げられる。
この段階ですでに多くの視聴者は裏設定に気づき、少女の行動に理解を示しているはずだ。レポーターである紺野ぶるまも、現場の不穏さを察している様子を見せる。
スタジオでVTRを見るAマッソの2人は「(儀式に対して)プレッシャーがあったんかな」と、違和感にまったく気づいていないようなコメントをする。
VTRの上にタレントの顔を載せるワイプは、視聴者に共感を促すための一種の装置だ。テレビに関する記事や著作を多く持つライター・てれびのスキマ氏は「視聴者が驚いて欲しいところで驚き、泣いて欲しいところで泣いて、視聴者を誘導する役割をワイプは担っている」と指摘している(2018年5月11日「Yahoo!個人」掲載「日本テレビの“罪”――ワイプの発明」)。
だがAマッソはここで視聴者の感覚とひどく乖離したコメントをしている。結果として、オーバーリアクションで視聴者に不快感を与える”過剰なワイプ芸”(=バラエティ的な嘘)と同様に、視聴者はAマッソに対して「番組側とグルになって視聴者を騙そうとしている」という印象を受けてしまう。
正直、初見時のこのシーンで筆者も「Aマッソが裏設定に気づかないのはさすがに無理がある」と感じ、本作の評価を下げる大きな要因となっていた。だが、後にその考えは180度ひっくり返る。なぜなら、先述した通り、番組中に配置された小道具などを読み解いていくと「実はAマッソや番組制作側はPart2の新興宗教団体の仲間であり、その意向の下で本番組が制作されていた」という説――本作の大ドンデン返しが浮かび上がってくるからだ。
Aマッソは最初から視聴者を騙すつもりの仕掛け人側だから、ワイプで見当違いなコメントをするのも当然なのだ。『奥様ッソ!』は、バラエティ番組が抱える演出、ここでは「台本に沿ったタレントのコメント」という”嘘”をフェイクドキュメンタリーの仕掛けの一部としてあえて使うことで、日常的に見慣れたものを異様なものに見せる”異化効果”を最大限に発揮させている。
この最大の仕掛けに気づいた時、本作の評価は一気に逆転し、フェイクドキュメンタリーならではの醍醐味を味わえることとなる。
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