佐藤二朗主演『さがす』―「ながら観」と「倍速視聴」ができない映画
#佐藤二朗 #稲田豊史 #さよならシネマ
『岬の兄妹』(19)で国内映画界に衝撃をもたらした片山慎三監督が、『さがす』で商業映画デビューを飾った。「連続殺人犯を捕まえたら300万もらえる」と言い残して姿を消した父親・智(佐藤二朗)を捜す中学生の娘・楓(伊東蒼)が、驚くべき真相にたどりつくミステリーであり、サイコサスペンスであり、ヒューマンドラマでもある。
本稿執筆時点で本作は劇場公開前だが、激賞が飛び交うのは目に見えている。ポン・ジュノ作品やパク・チャヌク作品を彷彿とさせる硬質なサスペンス演出。複数の視点と時系列を巧みに混在させた緻密な構成。尊厳死やネットの自殺幇助といったタイムリーな社会問題の取り込み。佐藤二朗、伊東蒼、清水尋也ら役者陣の「引く」ほどの怪演。様々な意味で撮影が難しい大阪・西成地区のロケについても、同業者ならば感嘆を隠せないだろう。
しかし、あえてそれら以外の点を激賞したい。「画面の作り込み」である。具体的には、小道具を始めとした「美術」への偏執的とも言えるこだわりだ。
たとえば、智と楓の父娘がふたりで住む平屋の自宅。大阪の下町、狭い路地裏に面する勝手口からふたりが中に入ると、次のショットで観客は一気に彼らの「生活」に引き込まれる。
台所の流し台に干してあるゴム手袋や台拭き。鍋に突っ込まれたままのお玉。乾かしてあるまな板。収納スペースがないために露出した状態が定位置である(と見ればすぐにわかる)箸立てや、コンロ横のサラダ油ボトル。揃いすぎていない、かつ整然と並べられすぎていない食器群が食器棚のガラス越しに見える。ホワイトボードに書かれた備忘メモ、マグネットで止められたチラシ。電灯を消すための紐がブラブラと垂れ下がり、壁にはスーパー玉出(大阪を中心に展開する実在の激安スーパー)のビニール袋がかかっている。
どの小道具も「撮影のために用意されたもの」には、到底見えない。長年使い込まれた経年劣化がちゃんと確認できる。ただ、決して乱雑に扱われているわけではない。狭い居住空間を有効活用すべくきちんと整理され、使いやすい位置に配置されていることが画面からひしひしと伝わってくる。「経済的に余裕はないが、生活が荒んでいるわけではない」。この微妙なニュアンスを、美術だけで見事に表現している。
智の自室も同様だ。不揃いな大きさのカラーボックス。襖に貼られたシール。鴨居にかけられたハンガー。安っぽい敷物。狭い部屋に対して斜めに置かれた安楽椅子。そこにくつろいで小さめの液晶テレビを観る。それが長年の習慣なのだ。
インテリアデザインとしてはまったくもって洗練されていない。統一感もポリシーもない。しかし、普通の人の普通の部屋とはそういうものだ。この匂い立つほどのリアル。既婚中年男性が長年かけて到達した、絶妙な小道具や家具のラインナップとその配置。少なくともが去10数年はここに住み続けているという生活の痕(あと)、日常の垢(あか)が、ありありとうかがえる。このように、あらゆる美術にクリエイティブ上の「意図」が隙間なく込められているのだ。
美術で登場人物の生活を表現するなんて当たり前ではないか、と思う方もいるかもしれない。が、多くの国内テレビドラマや日本映画では、当たり前ではない。誰しも目にしことがあるはずだ。生活の匂いが一切しないモデルハウスのような室内。チリ一つ落ちていない床やシミひとつ無い壁。「経済的に苦労している、東京で一人暮らしの若者」のはずなのに、なぜか23区内のJR中央線沿い(家賃が高い)の、2間もある物件に住んでいる嘘臭さ。“冴えない非モテ”設定の独身女性が、センスのいいコーディネートで古着をまとい、ライフスタイル誌で紹介されていそうなインテリアに囲まれているという不自然。「貧乏人の部屋は不衛生で荒れ放題」という間違ったテンプレ。そんな作品で溢れている。
なぜそうなってしまうのか。そのほうが、準備に時間がかからないからだ。アリモノを、どこかで見たような、よくあるイメージのパッケージごと拝借してくるほうが、面倒がないからだ。それは作り手の怠慢というより単にスケジュール上の問題、時間がないだけのかもしれないが。
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