『M-1グランプリ』という巨大な“閉塞的ゲーム”と私たちの「語り」
#お笑い #社会 #M-1グランプリ
「不良」芸人たちが、『M-1』の硬直を打破する可能性
スピードワゴンのボケ・小沢一敬は、参加者が増えた今年の『M-1』について、「不良(の漫才師)がいっぱい決勝に上がったんだよ。だから優等生の居場所が少なくなっていったわけ。ランジャタイもモグライダーも不良なんだよ」と語っていた。小沢が言う「不良」という言葉は、ネタの傾向だけでなく、『M-1』というゲームへの臨み方として考えることもできるだろう。
特にランジャタイは、いつもの彼ららしいナンセンスギャグの乱打としてのネタ演目だけでなく、出番前のボケや敗退コメント時のオール阪神・巨人パネルネタ(ひいては出番直前のエモーショナルな挙動に対する、大会終了後に説明した理由の付け方)まで含めて、「『M-1』という場を通していかにふざけるか」という「不良」的な試みに挑戦しているように思えた。言い換えれば、『M-1』という装置に取り込まれ、自分たちの「ボケ」性を奪われることに抵抗していたようにも見える。
オール巨人が「(ランジャタイの)ふたりから直接手紙をもらった」「人間はすごい良い」とコメントしたことで、結果的にその「ボケ」性を打ち消されてしまったように、『M-1』という場はそういう逸脱をすかさず回収してしまうわけだが(司会・今田耕司による「ランジャタイのキャラが完全に崩壊してしまいました」という冗談は、回収作業の完了をアナウンスしているかのように響いた)。
『M-1』はもはや閉塞したひとつの「シン」として機能しており、芸人は観客の「シン」をくすぐるどころか、まず『M-1』という「シン」に対抗しなければいけなくなってしまっているのである。そして言うまでもなく、「審査員的に」語りたがる私たち視聴者もまた、その『M-1』の「シン」性に加担しているのだ。
ただ、ランジャタイをはじめとするような「不良」たちが本当に増えてきているのなら、そこに可能性があるように思う。漫才芸や演芸コンクールまでもが過剰管理され「シン」となってしまうような硬直した状況のなかで、それでも強力な「ボケ」性を体現し、『M-1』を、ひいてはその向こう側にある社会までもをくすぐるような「不良」が、続々と現れるとすれば。
少なくとも今回、ランジャタイが執拗にふざけようとするさまを観ていたとき、自分は『M-1』というゲームについてアレコレ考えるよりもまず先に、そのおかしさにゲラゲラと笑うことができたように思う。ついつい「審査員的に」なってしまいそうな自分の「シン」的な意識が、彼らのバカバカしい「ボケ」の力でくすぐられるような感覚があった。
やや過剰に優勝後の「物語」を体現させられつつある錦鯉のネタにしても、徹底的にベタでバカな内容が生む「ボケ」性が、『M-1』的なゲーム性を凌駕し、場を揺さぶったところはあると思う(松本人志の「最後の最後はもうバカに入れようと思って錦鯉にしました」というコメントは、芸人が持ち得る「ボケ」性の魅力への言及に、図らずもなっていたように感じる)。
私たち観客も、『M-1』というゲームや「語り」に夢中になりすぎるのではなく、芸人たちが繰り出してくる「ボケ」性を正面から受けとめ笑うこと(さらには、その「ボケ」性そのものについて語り、考えること)ができたとき、この硬直性・閉塞性を打ち消す可能性に出会えるのではないだろうか。
私たちには、社会の硬直をくすぐり解きほぐすような笑いの力が、これからもどうしたって必要だ。強烈な「ボケ」の力を社会の「シン」に対して発揮する瞬間を、まだ見ぬ「不良」漫才師たちがもたらしてくれることを、期待したい。
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