『M-1グランプリ』という巨大な“閉塞的ゲーム”と私たちの「語り」
#お笑い #社会 #M-1グランプリ
『M-1』という閉塞的ゲーム
『M-1』には、芸人=プレイヤー側だけでなく、観客=消費者側の在り方をも規定しているところもある。
『M-1』を能動的に楽しもうとしているファンは、番組側が用意する関連コンテンツを次々に鑑賞し、芸人たちのSNSやYouTubeでの発信をチェックし、公式ウェブサイトに用意された点数表を使って敗者復活戦のネタを採点し、大会に関する感想・批評をネットに書き綴る(もちろん、本稿自体もそのひとつだ)。メディアもこぞって考察記事を出しまくり、「語り」はさらに白熱していく。
実際、『M-1』が観客にもたらす快楽の多くは、芸人たちのネタの鑑賞そのものよりも、『M-1』が生み出しセッティングしてくれる状況のなかで、(桶田が指摘したように)「審査員的に」語ることの方にむしろあると思う。
漫才には勝敗判定についての絶対的な基準がないため、観客たちは「自分はこの芸人がベストだったと思う」「自分はこちらのネタの方を評価する」といった語りのきっかけを得やすい。語るのための構図があらかじめ用意されており、誰でも「いっちょ噛み」しやすいのだ。
観客側の批評めいた語りが誘発され、大量に流通することで、興行の影響範囲が拡大されていく。SNS時代のコンテンツ消費の在り方にマッチしたイベントとして、現在の『M-1』はある。その中で観客は、『M-1』というゲームを「語る」というよりも「語らされる」ことに鈍感になりがちで、熱心なファンほどこのゲームの妥当性を改めて問うことが難しくなる。観客の目には、『M-1』に向き合う芸人たちが熱心で真面目なゲームプレイヤーとして映ってしまう。芸人たちが体現させられる「物語」が違和感なく受け入れられていくのも、『M-1』がセッティングするこうした状況があればこそだろう。
社会秩序をくすぐる芸人の「ボケ」性
社会学者の井上宏は、社会において漫才とは、「社会や生活のシン(※)に対し、ボケの役割を担う芸能」である、と述べている(井上宏『まんざい 大阪の笑い』世界思想社、1981年)。(※引用者注・現在使われるところの「ツッコミ」とほぼ同義だが、ボケ=「愚」に対比されるところの「賢」の意として、井上は「ツッコミ」ではなく「シン」という語を使っている)
「愚」=ボケ=漫才が逸脱的な笑いを一瞬だけ爆発させることで、「賢」=シン=社会秩序に(一時的な)混沌をもたらし、それをリフレッシュ・再生するということだ。『M-1』が人気を集めている現在の状況は、井上が言うような漫才と社会との交歓が生まれているように一見、思える。
だが、実際には芸人も観客も『M-1』という閉塞的ゲームに誘導されており、漫才が社会秩序をくすぐるようなダイナミズムへの可能性が失われているのではないかという疑問が、私にはある。
社会秩序をくすぐる力を本来持つはずの漫才が、『M-1』という閉塞的な環境の下で生産・消費を過剰コントロールされている光景に、私はある種の可能性の喪失危機を感じるのだ。
この環境は、『M-1』がここまで巨大な興業に成長し、市民権を得たいま、もはや動かしがたいものであると感じる。観客を本当に強く笑わせ揺さぶるためには、芸人は社会に対する「ボケ」性そのものをなんとか体現しなければいけないが、『M-1』というゲームは「ボケ」性を芸人から剥がし、回収しようとする。
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