手塚治虫からカレー沢薫まで……動物にも隠毛にもなる「漫画家の自画像」徹底分析
#インタビュー #漫画
信頼関係があるから“モデル問題”は起きない
──文学研究者の日比嘉高氏の『プライヴァシーの誕生 モデル小説のトラブル史』によると、小説においては三島由紀夫の『宴のあと』事件、柳美里の『石に泳ぐ魚』裁判など表現の自由とプライヴァシーのいずれを優先するかについての争いで基本的に後者の訴えが勝ってきた歴史があり、時代が下るほど特定人物をモデルにした作品は書きにくくなっていると指摘があります。ところが『漫画家の自画像』を読んでも、いしかわじゅんが描いた岡崎京子や桜沢エリカの似顔絵について本人たちからクレームがついた話が出てくるくらいで、マンガでは深刻なモデル問題が起こっていないことに驚きました。
南 ほかは強いて言えば、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』で小林よしのり本人は美形で描かれる一方、敵対する言論人が醜く描かれることが指摘されているくらいですかね。
マンガでは伝記や評伝、あるいはエッセイマンガに誰かを登場させる際には、おそらくご本人やご遺族の了解を取っている、または信頼関係が成り立つ仲でしか描いていないからじゃないですか? 基本的に登場させる他人を悪く描かないし、プライバシーを暴く的なこともないからかなと。
堀田あきお&かよの『手塚治虫アシスタントの食卓』では手塚先生がパンツ一丁で出てきたりして、「これ、描いていいのかな?」と思ったりしましたが、そこは元アシスタントと先生の関係性があってのことでしょうし、手塚プロのほうにも了解を取っているでしょう。
島本和彦の『アオイホノオ』にしても、明らかに誰がモデルかわかる人物が実名で出てくるのに、「実在の人物・団体とは関係ありません」とわざとらしいくらい大きく打ち出した上で、島本さんも描いていいラインをわきまえていらっしゃるから、描かれたほうも笑って済ませている気がします。
──私小説のような「私マンガ」や自伝、漫画家マンガみたいな業界マンガがこんなにたくさんあるのは特殊な状況だと思うんですね。小説でも作家が主人公の話はそれなりにありますが、おそらくマンガほどではない。映画やドラマではさらに少ないですよね。なぜ、マンガではこんなに多いのだと思いますか?
南 映画の世界を描いた映画としては『8 1/2』や『ニュー・シネマ・パラダイス』や『蒲田行進曲』、最近では『カメラを止めるな!』などがありますが、映画が好きな人はそういう映画が好きですよね。それと同じで、マンガ好きはマンガの世界を描いたマンガが好きなんですよ。コミックスの中のちょっとしたおまけマンガに作者が出てくることはよくあって、読者もそれを楽しむ土壌ができている。
漫画家側からすれば身近な世界であり、好きで入った世界ですから描きやすいというのはありますよね。「漫画家マンガにハズレなし」というのは私の持論なんですが、漫画家を主人公にすると自分も漫画家であるだけに実感がこもるし、作中で売れっ子を描くにしても売れない漫画家を描くにしても、描いたことが作者自身に跳ね返ってくる。それが作品にいい効果をもたらして良作につながる。読者ウケもいいし、それなりに売れる見込みが立つから企画も通りやすく、さらに増えていく──という、いい意味の連鎖反応が起こっているんだと思います。
たぶん、編集者も好きだと思うんですよね。自分がモデルになったような編集者が出てきたら、嬉しいんじゃないかな。作者、読者、編集のみんなが喜ぶ“三方一両得”みたいな(笑)。
昔はマンガ界の舞台裏を読者はあまり知らなかったので「へー、そうなんだー」と思っていたのが、今は情報が共有されているからよりリアリティが求められているところはあるでしょうけど。
──漫画家を描くマンガから感じる、編集者との関係性の変化はありますか。
南 昔はとんでもない名物編集者がいて、伝説になっていますよね。「週刊少年チャンピオン」(秋田書店)の編集長だった壁村耐三さんとか、コンプラ重視の昨今では考えられないような、よく言えば豪傑、悪く言えばヤクザな編集者が大勢いた。そういう時代の話だと本当に個性的な編集者が出てくるけれども、最近ではフィクションだとしてもあんまりめちゃくちゃな編集者を出すと「これってどうなの?」と思われますから、大人しくはなっているのかな。ただ、いわゆる「クソ編集」は近作でもちょいちょい出てきますね。逆に漫画家に真摯に寄り添う編集者が描かれることも多いですし、そのへんは現実を反映しているのでしょう。
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