溝口健二『祇園の姉妹』戦前から現在にも通ずる女性の悲痛な叫びを描いた一作
#映画 #キネマ旬報
思わず声を上げるラストシーンの演出!
居候する古沢に納得のいかないおもちゃはひとり策略を練り、古沢を追い出そうと巧みな話術で次々と男たちを騙していきます。
梅吉を好いている骨董屋・聚楽堂に、梅吉も聚楽堂に好意を持っていると嘘をつき、古沢を追い出すための手切金を出させ、梅吉の留守を見計らって古沢にお金を出し追い出すことに成功、そのまま聚楽堂は梅吉の旦那となる。おもちゃに気があり、店の帳簿を誤魔化しておもちゃに着物を拵えたりしていた呉服屋の番頭・木村が、主人・工藤に偽装がバレてしまうという事件も起きますが、木村の代わりにおもちゃに話をつけようと工藤が訪ねてくると、上手いこと口を利き、ちゃっかり工藤を旦那にしてしまうおもちゃ。蜘蛛のように糸を張り巡らせるおもちゃに次々と男が引っかかってくるものだから、もうこちらは空いた口が塞がらない状態! おもちゃさんちょっとやり過ぎでは? と思わずにはいられませんが、甘え上手で可愛らしさがあるものだから何だか憎めない存在。
「あんたはんみたいな、酸いも甘いも知っとうようなお方はんに、いっぺん、あてらのこと聞いてほしおすねやわぁ」なんて言われたら、うーむ、鼻の下を伸ばしてしまうのもしょうがない。おもちゃの思惑通りに事が進み、男たちは手の上で転がされているようです。
しかし! そのおもちゃの策略を知った木村から恨みを買い、最終的におもちゃは痛い目をみる羽目に……。病院で手当を受け、ベッドに横たわるおもちゃは、駆けつけた梅吉に「なんで芸妓みたいな商売、この世の中にあるんやろ!」「こんなもんなかったらええんや!」と涙見せ、悲痛の叫びをあげます。
なんと、このラストシーンで映画が終わるのです。思わず私、声をあげてしまいました。
引きで画を撮る構図が多いこの作品、このシーンでは、ここぞと言わんばかりにおもちゃにズンズンとカメラが近付いていく演出で、おもちゃのはちきれんばかりの想いが切に伝わってきます。救いや希望の兆しが見えず、おもちゃと梅吉の未来はどうなったのかとざわめきが止まりませんが、あえてのこの潔いラストにする事で、映画のフィクションの世界に留まらない現実味を感じさせられるのです。
封切り時、芸妓商売の描き方に祇園を騒がせたとも言われ、尽くしても上手く世渡りしても、後で泣き寝入りする女の悲劇に、当時の女性差別の主張と評されていますが、それ以上に、現在にも通ずる溝口監督の主張があると私は感じます。
この作品を観終えて、数年前「女の弱さと、弱みを見せること、は違うよ」と近しい人に言われた事があって、ふとその言葉を思い出しました。昔、相談事をよく人にしていた時期があり、自分の弱さを相手に見せることに抵抗がなかったんです。私自身、自尊心が低く心配性で、プライドというものがあまりないのが問題だったのかもしれません。おもちゃのように策略を練っていたわけでは勿論ありませんが、今思い返してみると確かに、自分の弱さを見せることで相手と繋がっていた部分が確かにあった気がして。相手と良い関係とは言えないし、自分のためにもなっていなかったなと思います。
芸妓商売での生計の苦しみと心の窮屈さを打ち明けながら、誰かにどうにか好転させてもらおうとするおもちゃは身勝手で他人任せ。そんなおもちゃに、なんとなく昔の自分を重ねました。自分の状況を変えられるのは、自分自身しかいない、今はそう強くそう思いました。
検閲により90分以上あった完全版から現在残るのは69分。ちょっぴり台詞が聞き取りづらいというのが難点ですが、愚かさやしたたかさ全て詰め込んで、女という生き物を描いた溝口監督の眼差しには、視聴者に向けた厳しさと優しさが混在しているように感じます。
身勝手ながらも可愛らしいおもちゃに振り回されながら、是非とも溝口ワールドをご堪能ください!
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