江戸川乱歩、谷崎潤一郎……「のぞき見」に執着した近代文学者はスマホ時代を予見!
#文学
窃視者だらけになった今、再考すべき作家
──もうひとつ、横光利一や川端康成ら新感覚派の作家の映画とのかかわりと、彼らの私小説的な「私」とは無縁な彼らの文体についても書かれていますよね。乱歩、朔太郎、谷崎、横光、川端……今回の本に登場する作家たちは、おおむね自分の内面より外側──他人の暗部も含めて──を視ることに関心が向いている作家のように思います。
谷川 新感覚派に引きつけて考えれば、「表面」を描こうとした、といえる。新感覚派と映画は、どうかかわるのか。横光も川端も、例えば映画『狂った一頁』(1926年)に関与しています。
映像は表面しか撮ることができない。だから、ショットを重ねたり、同じところにカメラを置いてロングで撮ったり、クロースアップしたり、パンで引いたり、オーバーラップさせたりすることで表現していく。こうした「ショット」という映画的な技法を小説の言語的な技法に応用しようとした表現が、横光や川端の小説には出てきます。
このようにテクノロジー、とりわけ視覚装置が近代の作家の想像力には決定的な影響を与えた。そして、その流れは終わったわけではない。こうした問題は、マクルーハンが言っていたこととも関係します。マクルーハンは世界中が神経網に覆われ、世界は皮膚のようになるだろうと予言した。皮膚というのはつまり表層、表面です。
あるいは、美学者の中井正一は世界の文明が「うつわ」と「からくり」になるだろうと予想していた。「からくり」は世界中を覆うもので目に見えず、ただ四角い「うつわ」を指先でいじって見るだけになる、と。今やスマートフォンという名の「うつわ」と目に見えない「からくり」を通して、世界中は皮膚と化し、足早に切り替わっていく表層をのぞく人間だらけになっている。
──「孤独な窃視者の夢想」は過去の話ではなく、むしろそれが遍在するようになったのが現代だと。
谷川 昔は電車に乗るとお互いに目が合い、それが元でケンカが起こったりしていたけれども、今は起こらない。スマホという「うつわ」を通して他人のことをのぞき見ているだけになった。そして、そのまなざしは一方的です。そういう意味で、乱歩や朔太郎に表れた近代の問題が世界中に広がっているといえる。
顔も見せずに匿名で悪口を言うことはモラルに反する、というのが従来の「対面倫理」だったけれども、今は通用しない。歩きスマホをして人にぶつかりそうになっても、謝りもせずに去っていく。これは昔なら考えられない態度です。朔太郎のように目を合わせない主体が当たり前になってしまった。では、窃視者だらけになった今、対面倫理に代わる倫理をどう打ち立てるのか。『孤独な窃視者の夢想』はそういったことを、この問題の端緒といえる朔太郎や乱歩のような日本近代文学の作家に立ち返って考えるきっかけにもなるでしょう。
谷川渥(たにがわ・あつし)
美学者。著書に『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』(ちくま学芸文庫)、『シュルレアリスムのアメリカ』(みすず書房)、『肉体の迷宮』(ちくま学芸文庫)、『文豪たちの西洋美術 夏目漱石から松本清張まで』(河出書房新社)ほか多数。
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