米軍のアフガン撤退戦が参考にすべきだった!?日本が見せた3大撤退戦
#米軍
2021年、日本時間の8月31日(米東部時間30日)、米中央軍のマッケンジー司令官は「アフガニスタンからの我々の撤退完了と米国市民、第三国の国民、攻撃を受けやすいアフガニスタン人の退避作戦の終了をここに宣言する」と、米軍がアフガニスタンからの撤退を完了したと発表した。ここで01年から続くアフガン戦争は終わりを迎えたわけだが、その最後の徹退に関しては、バイデン政権に厳しい目が向けられている。
例えば、国外退避を希望した米国人100~200人が空港への安全を確保できずに取り残された。また「首都カブールに進駐したタリバンに殺されるのではないか」と恐怖したアフガン人が空港に殺到したものの、大半は無残な形で取り残されている。
そして何より、徹退の最中、IS(イスラム国)系勢力によるカブール空港爆破テロで13人の米軍関係者が死亡したことは、バイデン米国大統領にとっても大きな痛手となった。共和党などは早速、バイデン(=民主党)の責任として攻撃材料に使っているからだ。
しかし古来より、徹退戦というのは「もっとも難しい」と言われている。開戦はたやすいが、終戦や徹退戦は極めて困難ということである。徹退戦が難しいのは、逃げる際に敵の猛追を受ける可能性が高いからだ。
そこでここでは、日本の歴史の中で有名な3つの撤退戦を紹介してみよう。
その1. 織田信長による「金ヶ崎の退き口」
まずひとつ目、戦国時代の徹退戦で有名なものに、織田信長によるいわゆる「金ヶ崎の退き口」がある。
1570年、信長が越前の朝倉氏を攻めるが、金ヶ崎城(敦賀)の陥落後に、同盟関係を結んでいた浅井氏(信長の妹・お市が嫁いでいた)が裏切ったとの情報が入る。このままでは挟撃されると見た信長は、徹退を決意するのだ。信長といえば、ドラマの影響で即断即決とのイメージがあるかもしれないが、実はそうではない。この時もその情報は「嘘ではないか」として、なかなか徹退しようとしなかったのである(参照:『信長公記』)。
しかし、浅井の裏切り情報が次々と入るなかで、ついに信長も認めざるを得なくなり、徹退を決意。羽柴秀吉や明智光秀といった家臣に殿(しんがり。後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する)を任せ、自らは供の者少数を連れて、京都へ向けて逃げ帰った。
この時の徹退戦に関しては、どれほどの被害があったかは明確にはわからないが、信長本人も死なず、秀吉らも無事に帰還していることから、成功だったと見て良い。まだ早い段階で、徹退を決意し、殿を名将に担当させたことが成功の理由であろう。
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