黒木和雄『美しい夏キリシマ』、戦争を描き続けた監督が見せる“生への尊厳を奪われた人”たちの哀しさ
#美しい夏キリシマ
監督が体験的に感じた戦争の無力さ
これらに共通しているのは、皆、死にそうで死ななかった人間であること。そして、生きることに対し、決して肯定的ではありません。彼らが目撃した死、または死目前の体験は、それを語る生きた人間の心をも、刻々と蝕んでいるのです。それは、今作を〝贖罪〟のための映画だと述べる黒木監督自身のことでもあるのです。終戦直後の心境を、黒木監督は著書でこのように語っています。
「平和な世の中になったのだというほっとした気持ちと同時に、心の中にぽっかりと穴があいたような感覚がありました。これから先も生きなければいけない、ということに現実感がなかったのです。戦争末期、たぶん私だけでなく当時のほとんどの少年少女がそうだったと思うのですが、『きっと自分は年内に死ぬだろう』などと、将来にたいする希望は真っ黒に自分で塗りつぶしていたのです。」
これが、黒木監督が身を持って語る戦争の脅威なのだと思います。終戦とは、ただ戦争という行為が終わったというだけなのだと。そこにいた人々の心は取り残されたまま、終結を迎えていないことこそ、死よりも恐ろしいことなのだと感じました。
被爆死した友人の妹に、許しを乞うため会いに行っていた康夫。「兄の仇を討ってください」と言われるも、何と闘ったらいいのか分からないまま終戦を迎えます。そんな康夫の前に現れたのは、進駐してきたアメリカ兵達。霧島の畦道を、大きなアメリカ国旗をはためかせながら歩く彼らのもとへ、康夫は竹槍を振り回して暴れますが、簡単に放り投げられ、笑みを浮かべながら威嚇発砲された銃声に、驚き座り込んでしまいます。アメリカ人の、高身長で良い体格と、15歳の貧弱な少年の身体はあまりにも差が大きく、視覚的にも、その無力さを感じざるを得ないのです。
「殺せー!殺せー!」と叫びながら、竹槍を持って暴れる康夫。それは、生き残ったことへの罪悪感と、今後どう生きたら良いのか分からない不安の、複雑な心境が混じり合っていて、それは当時の黒木監督を含め、取り残された人々の魂の叫びであり、全く歯が立たない少年の姿が、なんとも切ない衝撃的な場面でした。
戦争の本当の恐ろしさは、死への恐怖だけではないのです。『美しい夏キリシマ』には、常に死と隣り合わせの中、生きた心地のしない人々からみた、終わりのない戦争が描かれていました。映画を通し、黒木監督が生涯をかけて遺した想いが、後世にまで受け継がれることを、一視聴者として祈ります。
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