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『青天を衝け』では描かれなかった新選組・近藤勇と土方歳三の別れと“再会”

なぜ土方歳三は近藤勇の捕縛を許してしまったのか

『青天を衝け』では描かれなかった新選組・近藤勇と土方歳三の別れと“再会”の画像2
近藤勇

 新政府軍で甲府攻めを担当していたのは、後の板垣退助を含む気鋭の軍人たちです。幸せボケしたような状態の近藤が率いる新選組は戦で凡ミスを繰り返し、敗走を重ねました。ついには近藤の軍略にもう従えないと主張する永倉新八らが「靖兵隊」(「靖共隊」とも)を結成、を結成、新選組本隊と別行動を取るようになってしまいます。

 かつては鉄の結束を誇った新選組でしたが、その末期は人材難にあえいでいたとも言えます。甲府での任務に際し、新選組には、旧幕側から大砲2門まで与えられていました。しかし立派な大砲はあっても、それを操る専門技術を持つ射手が不在という、ありえない事態が起きていました。射手が甲府の実家に帰ったきり戻ってこようとしなかったので戦で大砲を使うことができなかった、という耳を疑うような逸話が残されています。

 敗北に打ちひしがれる新選組の残党は流山(現在の千葉県)に潜伏、態勢の立て直しをはかることにします。3月はじめに江戸を得意満面で出立してから、わずか1カ月ほど後の4月2日のことでした。

 その翌日、流山で新選組は新政府軍と衝突し、近藤は囚われの身となってしまいます。逃げおおせた土方は、4月12日に旧幕軍に合流し、奥州の地を目指して進軍を続けたことがわかっています。捕まった近藤は同月25日、江戸の外れにあたる板橋において斬首刑となってしまったのでした。

 土方と近藤の別れについて、当人たちが何も語っていないため、これ以上の詳しいことは何もわかっていません。近藤の身柄がなぜ新政府軍のもとにあったのか、近藤が投降したのか、それとも捕縛されたのか……その経緯も謎に包まれています。

 一つ言えるのは、この時の新選組は非常に運が悪かったということです。彼らが流山に潜伏した時、ちょうど近隣の結城藩内で新政府へのクーデターが勃発したため、この制圧に向かった新政府軍が流山を通ることになりました。新選組はこの機に乗じて新政府軍へ攻撃を開始したものの、圧倒的な武力差に「このままでは負ける」と攻撃を取りやめます。そして「自分たちも新政府軍の兵士だが、遠目には貴君らが賊軍に見えたので射撃してしまった。申し訳ない」などと嘘でごまかそうとしたのですが、結果として新選組であることが露見してしまったのでした。

 土方と近藤は偽名を使っていました。新政府軍には自分たちが誰だかわからないと踏み、「自分たちは新政府軍の兵士だ」などと主張してその場を免れようとしたものの、「軍律があるから、一度出頭するように」と命じられてしまいます。

 近藤は「かくなる上は自害すべき」と一度は覚悟を決めますが、土方が「犬死には避けよう。なんとか言い訳してこい」と主張するので、近藤は出頭したものの、すぐに近藤勇であることを見破られ、驚愕と恐怖の面持ちで捕えられたという証言もありますが(子母澤寛『新選組始末記』)、さすがにマヌケすぎて本当のこととは思えません。

 なぜ土方が最後まで近藤に付き従っていながら、近藤が捕らえられてしまうのを許してしまったのかは歴史の謎ですね。

 歴史小説家の司馬遼太郎は、この謎を解くべく、近藤投降説を巧みに演出して自身の作品に用いています。土方が「奥州(現在の東北)に旧幕勢力が結集しているので、新選組もそこに加わって徹底抗戦すべき」と提案するも、これまで経験したこともない敗戦の連続に打ちひしがれ、自信を失った近藤は受け入れられず、「自分のことはもう自由にさせてくれ」「お前はお前の道をゆけ」などと断った……というのが司馬の“仮説”ですが、こういうやり取りが両者の間に本当にあったとしても、不自然なことではないと筆者にも思われます。

 捕縛された後の近藤は、自分に最後まで付き従った者の助命を嘆願するほかは、落ち着き払って過ごしていたと伝えられています。通常なら武士の身分を持つ者は切腹という形で自らの命を絶たせるべきなのですが、新政府側の役人はそれを許しませんでした。しかし近藤は、自身に対する役人のこうした“非礼”を咎めるようなこともなく、最期の言葉は「ながながとご厄介に相成った」だったと言われています。そんな近藤の姿に、首切り役の役人まですっかり魅せられてしまい、この役人が多額の褒賞金を使って近藤の法事を自分の故郷で行った、というような話までありますね。

 近藤の首は、新選組隊士の永倉新八が伝えるところによると、「アルコウルにて首をしめ、西京三条河原へ曝(さら)す(『浪士文久報国記事』)」ことになりました。一種のエンバーミングが施された後、京都の三条河原で4月8日から10日朝まで、さらし首になっていたことはわかっていますが、しかしそこから先の近藤の首の行方はよくわかっていません。

 会津で新政府軍を迎え撃っていた土方が、京都時代にいろいろな用事を頼んでいた「侠客」の上坂仙吉(通称・会津小鉄)に「近藤の首を持ってきてくれ」と依頼し、上坂が会津まで届けたという話もあります。

 もっとも語り継がれていた上坂の証言が文字化されたのは昭和になってからで、上坂がどこから近藤の首を入手したかなどの具体的な情報には欠けています。しかし「仁義の人」である上坂は、新政府によって禁じられていたにもかかわらず、旧幕側の遺体の埋葬をしていたことでも有名でした。さすがの上坂も、近藤の首そのものを運んだのではなく、荼毘に付した上で、遺骨を荷物などに隠して会津まで運ぶしかなかったと思われますが……。

 会津の天寧寺(福島県会津若松市)に存在する近藤勇の首塚は、そのようにして上坂が運んできた近藤の遺骨を収めたものではないかと考えられています。上坂の献身のおかげで、土方は流山で涙の別れをした近藤に会津で“再会できた”という話があることだけでもお伝えして、今回は終わりにしようと思います。

<過去記事はコチラ>

堀江宏樹(作家/歴史エッセイスト)

1977年、大阪府生まれ。作家・歴史エッセイスト。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。原案監修をつとめるマンガ『La maquilleuse(ラ・マキユーズ)~ヴェルサイユの化粧師~』が無料公開中(KADOKAWA)。ほかの著書に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)など。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)。

Twitter:@horiehiroki

ほりえひろき

最終更新:2023/02/21 11:43
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