『青天を衝け』で描かれなかった渋沢成一郎と彰義隊・振武軍、そして「上野戦争」「飯能戦争」の大敗
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彰義隊、振武軍の惨敗……そして箱館戦争終盤に見せた渋沢成一郎の奇妙な行動
開戦前は、新政府軍の兵士数3000人に対し、彰義隊にもほぼ同数の兵士がいたとされます。江戸市中は旧幕派が主流で、彰義隊の人気は高く、色街では「情夫(いろ)にするなら彰義隊」などと女たちが口にしていたほどです。しかし、実際の上野戦争では新政府軍の作戦勝ちにより彰義隊はわずか1日足らずのうちに敗北、生き残った兵士たちがバラバラに逃走するという屈辱的な終わりを迎えました。
新政府軍と彰義隊の交戦開始は、5月15日の朝8時ごろでした。現在の暦でいえば梅雨の最中である7月初頭で、前日14日の夜から豪雨が続いていたそうです。当初の戦況は、激しい雨音に混じって「ドンドンという砲声と、あたかも豆を炒るようなパチパチという小銃の音が、耳を貫くかと思うばかり」だったそうです(『同方会誌』30号に収録された目撃者の証言より)。
それでもこの日の昼前までは彰義隊は善戦していましたが、昼過ぎから新政府軍が寛永寺に最新式の大砲・アームストロング砲による攻撃を容赦なく行い始めると、形勢は逆転。彰義隊は壊滅に追い込まれてしまいます。兵力では彰義隊と新政府軍は互角でしたが、後者は最新式の武器を自在に使いこなすという戦力の点で、前者より大きく優れていたのです。
新政府軍には、少しでも早く戦いにケリを付けてしまわなければならない理由がありました。というのも、日和見的に状況をうかがっている旗本や、地方出身の武士たちが江戸の街に多く身を潜めており、「彰義隊が新政府軍相手に善戦している」などと聞けば、彼らが駆けつけてくることは目に見えていました。上野戦争の指揮官・大村益次郎はこれを危惧して、容赦ない攻撃を寛永寺全体にまで加えたのです。
この砲火により、現在の上野公園全域を所領としていた広大な寛永寺内の寺院のほとんどが燃え上がり、人命の被害も甚大となりました。しかし、生き残った彰義隊士たちや、寛永寺の門跡だった輪王寺宮(のちの北白川宮能久親王)は新政府軍に降参はせず、わずかな伴を連れ、この頃はまだ旧幕勢力の中心地だった会津藩を目指して落ち延びていくのでした。
上野・寛永寺炎上の知らせは、江戸城・大奥にもすぐに届き、天璋院を激怒させたといいます。寛永寺は徳川家の菩提寺の一つであると同時に、天皇家の権威をも背負った寺院でしたから。しかも寛永寺を攻撃した新政府軍の主力は、天璋院の実家・薩摩藩の兵士でした。ドラマでは慶喜の逃走に激怒していた天璋院ですが、恐らくはそれ以上の悲しみを上野戦争では味わうことになったと思われます。
悲しい出来事が江戸で次々に起きている頃、飯能に滞在していた渋沢成一郎たち振武軍は、開戦の知らせを受け取ってからすぐに飯能を出立、上野を目指して進軍を続けていました。しかし、彰義隊が開戦から1日も保たずに敗北してしまったことを、現在の杉並区・高円寺あたりで知らされます。結局、振武軍は飯能に引き返し、彰義隊の生き残りと合流しながら、自分たちを壊滅させにやってくる新政府軍を迎え撃つ形となります。
後に「飯能戦争」と呼ばれる振武軍と新政府軍の激突は、上野での彰義隊敗北のおよそ1週間後、5月23日に始まりました。そして「上野戦争」と同じく、わずか1日たらずの間に振武軍の惨敗によって幕を下ろしました。
開戦までに振武軍の兵力は微増していましたが(正確には振武軍から新彰義隊に改名されたのですが、今回は省略)、やはり最新兵器を使いこなす新政府軍の強さには及ばず、渋沢平九郎など戦死者を多く出したのです。
生き残った僅かな仲間たちと成一郎は敗走し(『藍香翁』)、伊香保(現在の群馬県渋川市)、草津(群馬県草津町)と各地を転々とした揚げ句、旧幕軍と合流。最終的に前回放送のドラマ内で描かれていたように蝦夷地(現在の北海道)にたどり着いたのでした。
ちなみに蝦夷地にあった旧・松前藩の設備を奪い、当地を徳川の新天地とするべく戦っていた旧幕軍の名称も「彰義隊」です。「義を彰(あき)らかにする」と謳うその名称をいかに旧幕軍の人々が重視していたかがわかりますが、彰義隊の歩んだ道のりは苦しみばかりで、分裂つづきでした。
「上野戦争」時にも彰義隊の頭取であったにもかかわらず、大量に“アンチ”を発生させ、隊を追われてしまった成一郎ですが、蝦夷地でも上野の時と似たような理由で彰義隊は分裂しました。成一郎の率いる隊と、池田大隅守という人物の率いる隊の2つに分かれることになったのです。成一郎の”アンチ“による命名ではありますが、渋沢隊は「小彰義隊」、池田隊は「大彰義隊」と呼ばれることになりました。
前回のドラマ内では、銃を巧みに扱うようになった土方歳三(町田啓太さん)が再登場し、新選組時代とは異なる、どこか吹っ切れたような表情で成一郎たちと共闘するシーンが描かれました。史実でも確かに蝦夷地で、成一郎は旧新選組副長の土方歳三らと合流しています。成一郎と土方の親密な交流の記録があまり見当たらないのが残念ですが……。
しかし、明治2年(1869年)5月11日、頼みの土方が戦死してしまいます。彼の死は謎に包まれた部分が多いのですが(今後の放送の内容次第で、お話できるかも)、それから4~5日後、成一郎も謎めいた行動に出ました。小彰義隊の隊長であったにもかかわらず、成一郎は隊を脱走、行方をくらませたのです。しかも大彰義隊長・池田大隅守の姿も同時期に消えたのでした。
土方のような“カリスマ”がもし死ぬようなことがあれば、旧幕側の統率力がさらに落ちることは予測できたことであり、万が一にもそうなった時の“プラン”を成一郎は立てていたのかもしれません。彰義隊士たちを道連れにするようなことはせず、渋沢・池田両隊長だけが隊から脱走した後に行動を共にし、二人で共闘するという計画を練っていたのではないかと考えられます。どうせ死ぬのであれば、新政府軍の中心人物と刺し違えるつもりであったのではないかとも思われます。
文字数が迫ってきたので、今回はこのあたりで終えることにしますが、普段は仲が悪い者同士が、いざとなった時には共闘する“バディ”になる展開は胸アツですから、せめてここだけでも映像になっているといいなぁと思いますね。果たしてこの願い、叶うでしょうか。
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