『青天を衝け』で描かれなかった渋沢成一郎と彰義隊・振武軍、そして「上野戦争」「飯能戦争」の大敗
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
22日に放送された『青天を衝け』第25回「篤太夫、帰国する」は、想像以上にハードな展開の連続でした。新政府軍との戦いの末に自害する渋沢平九郎(岡田健史さん)の死に様には特に驚かされました。これまで平九郎に存在感があまりなかったぶん、「御旗本・渋沢篤太夫の嫡男、渋沢平九郎」などと勇ましい名乗りをあげて討ち死にした姿がいっそう衝撃的に思えたのです。
幕末から明治初期の日本で起きた“内乱”での死者数は、一説に数万人以上といわれますが、その多くが、平九郎のように自ら信じる正義のために死を選んだ若者たちであったと考えられます。やりきれない思いにとらわれましたが、それと同時に、農民に生まれながらも強い政治的関心を持っていた平九郎が武士にだけ許された切腹で自害できたのは、彼にとっては“悪くはない終わり方”であったのかもしれないなどとも感じました。
しかし……それ以上に筆者にとって衝撃的だったのは、「鳥羽伏見の戦い」はおろか、江戸総攻撃回避のために旧幕側が行った新政府側との息の詰まるような政治上のかけひき、さらには渋沢成一郎(高良健吾さん)が一時的にせよ「頭取」を務めていた彰義隊が新政府軍と激突する「上野戦争」や「会津戦争」など、幕末モノでは絶対に触れなければいけないはずのエピソードが、ズバッと全カットされていたことです!
今回はカットされてしまった「彰義隊」、部分的にしか映らなかった「振武軍」という2つの旧幕軍の軌跡を見ていきたいと思います。
徳川慶喜が大坂から江戸に戻った後、上野・寛永寺にて謹慎していた慶喜を警護する団体として1868年(慶応4年)、彰義隊は発足しました。当初は小栗忠順(武田真治さん)に頭取(=リーダー)就任を頼んだりしたものの断られてしまったので、その座に渋沢成一郎が就くことになりました。他に幹部となったのは天野八郎ら。隊士たちの多くは将軍直属の武士・旗本たちを中心とする人々でした。
江戸の治安維持を危惧していた徳川家からの公認は受けられましたが、資金援助を得られたわけではありません。慶喜の護衛を担当していた団体は、剣豪・山岡鉄舟ら有名人が属する「精鋭隊」などがすでに存在しており、彰義隊の存在意義には少々微妙なところがありました。
先述のとおり渋沢成一郎は彰義隊の頭取となりましたが、隊士たちとの折り合いが短期間の内に非常に悪くなり、なんと隊から追い出されてしまいます。成一郎は人間関係の構築が、栄一に比べるとうまくはなかったのかもしれませんね。他の人々が「新政府軍を討つぞ」などとワーッと盛り上がっている時も、成一郎は戦いを少しでも有利に進めるべく、軍資金を手に入れようと頑張っていました。武士になる前には藍の商売を通じてビジネスマンとして活動していたような人ですからね。しかし、一般的な武士は“経済”を軽んじがちでしたし、成一郎の資金集めなどは場の盛り上がりに水を差す行為のように思われ、嫌われてしまったのかもしれません。
成一郎は、慶喜から「新政府軍と軍事衝突することがないよう、行動を慎みなさい」と何度も頼まれていたそうです。しかし、その慶喜が寛永寺を出て、水戸に移った後、彰義隊の治安は乱れに乱れました。
彰義隊には旗本の次男・三男が多く参加していました。幕末期の幕府は“人あまり”の状態が続いていたので、実家を継ぐどころか、仕事さえ満足に得ることもできない彼らは、彰義隊に入って慶喜に忠義を尽くせば立身出世のチャンスがあると期待していたのです。しかし、慶喜は謹慎するばかりで武家の棟梁としてまともに動いてくれませんでした。
そんな中で新政府軍が江戸に到着したら、「かくなる上は討ち死にするのみ」的に隊士たちが暴発するのは避けられないことは目に見えており、成一郎は江戸から歩いて丸一日かかる土地に彰義隊を移動させることを提案します。しかし、多くの隊士たちからは猛反発を食らい、結果的に、成一郎に付き従う少数の者と、そうでなかった多数の者とで彰義隊は分裂してしまったのです。
彰義隊を抜けた成一郎は尾高惇忠(田辺誠一さん)、渋沢平九郎など“身内”と共に江戸・上野を脱出し、まずは田無、ついで箱根ヶ崎(東京都西多摩郡)に拠点を移動させつつ、最終的には一橋家の所領であった飯能(現在の埼玉県)に向かいます。この中で結成されたのが「振武軍」でした。
彰義隊とは袂を分かつことになった成一郎ですが、「新政府軍の味方にはならない」「降伏しない」という2つの約束を彼らと交わしていました。その上で、彰義隊が新政府軍と開戦した場合、すぐに援護に向かうとも誓っていたのですね。
ドラマの中で、山中を歩いている成一郎たちが遠くに上がる火の手を見つけて「上野で戦があった」と知るシーンが出てきたのを読者は覚えているでしょうか。そして、その直後に新政府軍の敵襲を受けていましたが、ドラマの描写と史実には大きなタイムラグがあるようです。
史実では、慶応4年(1868年)5月15日、上野の彰義隊が新政府軍と激突した「上野戦争」は独特の経緯をたどりました。
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