朝鮮人強制連行をめぐる重要裁判の展望―日本の未来は多様性社会か排外主義か?
#裁判
「疲れ果てた多数派」をやめた人々の逆襲
おおよそ、群馬の森追悼碑裁判が「日本が多様性社会と排外主義のいずれかを選択するのかの分水嶺となる」という主張に対しては異論が出るだろう。多くの日本人がマイノリティ問題から距離を置く理由の一つに、歴史観や価値観を押し付けられる居心地の悪さがある。ポリティカル・コレクトネス(政治的妥当性)発祥地のアメリカで、キャンセルカルチャーのターゲットとなることを恐れたマジョリティーが「疲れ果てた多数派」になっている状況と酷似している。
今回な残念ながら一方の当事者である追悼碑撤去を求めた側、言い換えれば「疲れ果てた多数派」をやめた人たちに話を聞けなかった。だが、彼らの主張を読む限り、彼らが問題しているのは碑文「追悼碑建立にあたって」の一部のようだ。
20世紀の一時期、わが国は朝鮮を植民地として支配した。また、先の大戦のさなか、政府の労務動員計画により、多くの朝鮮人が全国の鉱山や軍需工場などに動員され、この群馬の地においても、事故や過労などで尊い命を失った人も少なくなかった。
21世紀を迎えたいま、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。
碑文の一部を政治的あるいは反日的と感じるか否かは人それぞれだろう。では他方、当事者である在日朝鮮人の男性は、この問題をどうとらえているだろうか。最後に率直な意見を聞いてみた。
「歴史に関してはさまざまな見解があることは承知しています。だから、すべての日本人に在日をはじめとするマイノリティの味方になってほしいわけではありません。ただ、もう少し歴史や政治に目を向けてほしいだけなのです。そして、日本社会における人権問題に目を向けて、私たちマイノリティの存在を知る人が増えたらうれしいですね。
しかし、マイノリティだからといって弱者とは限りません。むしろ私たちのコミュニティーは日本社会では少数ですが、ルーツを大事にし、尊厳を重んじてきました。権利や差別における不条理には抗い声を上げ、相互に助け合ってきた強者だと思っています。そのような私たちの存在が、日本社会がより寛容で暮らしやすい社会になるための一助になれると確信しています」(同)
さて、碑文の内容と在日朝鮮人男性の言葉から、あなたは何を感じただろうか。
果たして、8月26日には群馬の森追悼碑裁判の控訴審となる東京高裁判決が下された。判決は、前橋地裁判決を取り消し、市民団体側の請求を全面棄却した。「守る会」側は、上告する構えとのこと。
この判断が、強いマイノリティの主張と歴史観を擁護するものになるのか、あるいは疲れ果てた多数派をやめた人々の逆襲を容認するものになるか、日本の未来を占う上で注目される。
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