赤西仁に「もう辞めちゃいなさい」とメリーさん一喝! ベテランリポーターが語る意外な一面
#赤西仁 #メリー喜多川
ベテラン芸能リポーターの城下尊之氏が、とかくあおり・あおられがちな芸能ニュースをフラットな目線で、おちついて解説!
――8月14日、ジャニーズ事務所名誉会長の藤島メリー泰子さんが肺炎のため死去しました。93歳でした。2019年7月に弟で前社長のジャニー喜多川さんが死去してから2年。これで本当に1つの時代が終わった感じがします。
そうですね。何年か前に、ジャニーズのコンサート会場を取材に行った際、メリーさんをお見かけしました。その頃、すでに80代だったと思いますが、「おはようございます」と声をかけると、「今日はよろしくお願いしますね」と笑顔でかくしゃくとしていました。関係者を迎えに行く途中だったらしく、慌てた様子で「ちょっとごめんなさいね」と小走りで行ってしまいましたが、とても感じのいい人でしたね。
――そうなんですか。メリーさんというとマスコミに厳しく当たるような、ちょっと怖いイメージがありました。あくまでイメージですけど。
確かに、何かトラブルがあった時には交通整理の役割を担っていたから、怖いというイメージがあるかもしれませんが、芸能事務所にはそういう役割の人がいないとなりませんから仕方がない。ふだんはとても優しい人で、田原俊彦さんも独立するときには快く送り出しもらって、「タレントファーストの優しい方」と振り返っています。
――でも田原は退社した後、長い間干されていましたよね。それはメリーさんが各テレビ局に圧力をかけたわけではないんですか?
違いますよ。田原さんは円満退社。メリーさんは田原さんが巣立っていくのは、仕方がないことと思っていたようです。退社のきっかけは1987年、その年まで7年連続で出場していたNHK紅白歌合戦に落選してしまったこと。その悔しさをバネに田原さんは翌年、ドラマ「教師びんびん物語」(フジテレビ系)の仕事を自分で取ってきて、主題歌も歌って大ヒットとなりました。その年、NHK紅白歌合戦に再び選ばれますが、辞退。こうした経緯から、メリーさんは田原さんがいずれ「自分でやりたい仕事ができるように独立するだろうな」と思っていた。そして、94年独立。テレビ局はジャニーズ事務所に気を使って、田原さんを起用しなくなったんです。
――すなわち、テレビ局がジャニーズ事務所に忖度したということですね。
そういうことですね。70年代後半から所属している川崎麻世さんは、当時はタレントと事務所が家族のような感じで、メリーさんには仕事だけでなく生活面もいろいろと面倒を見てもらったと言っています。徹夜で衣裳を作ってくれたり、お弁当を作って持たせてくれたり、仕事先まで送り迎えをしてくれたり。さすがに今のような大所帯になるとそこまでケアできませんが、メリーさんの気持ちとしてはかつてと変わらず、タレントと事務所、そしてファンも家族という思いがあったと思います。
――70年代後半は、メリーさんはまだ40代。本当に母親みたいですね。
さらに遡ると、68年にレコードデビューしたフォーリーブスは1978年に解散してから、メンバーはみんな退社。メンバーの薬物による逮捕などのトラブルがありましたが、アラフィフになって再結成したいと意を決してメリーさんに許可を取りにいったところ、「いいんじゃないの、がんばって」と笑顔で快諾してもらったそうです。そして、02年に再結成を果たし、09年まで活動しました。初期のジャニーズ事務所を支えた功労者として、メリーさんは彼らの思いを尊重していました。
――へえ、なんだかイメージが変わってきそう。
もちろん、叱るときは厳しいですよ。かつてジャニーズ事務所に所属していた元KAT-TUNの赤西仁さんは、ソロ志向が強く、グループ活動に身が入らない時期がありました。その時、メリーさんは「もう辞めちゃいなさい」と一喝したそうです。彼のスター性を見抜いていたジャニーさんや周囲のスタッフが留学させることで丸くおさめましたが。そのほか、飲酒、喫煙、法に触れることをしたら容赦なく処分する。その点も厳しい。メリーさんがそうした面倒な裏方を一手に引き受けることで、ジャニーさんには新人発掘や舞台演出などに集中できた。すべてジャニーズ事務所を守りたい、発展させたいと思ってやってきたこと。
――ジャニーさんと姉弟、二人三脚で事務所を大きくしたんですね。今後はどうなりますか。
ご存知のように娘の藤島ジュリー景子さんが社長を務め、副社長の滝沢秀明さんがジャニーさんの遺志を継いで新人発掘や舞台演出に邁進しています。スターをつくるシステムはしっかり確立されているので、今後も安泰だと思いますよ。
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