渋沢栄一も激怒した、「鳥羽伏見の戦い」における徳川慶喜の敵前逃亡 その裏に慶喜流の“生存戦略”があった?
#青天を衝け #徳川慶喜 #大河ドラマ勝手に放送講義
──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『青天を衝け』が放送再開されました。日本での信じられぬ出来事が、パリにいる渋沢たちにも書簡を通しておぼろげながらも伝わり、徐々に現実に起こっていることなのだと彼らが理解していく演出はドラマティックでしたし、表現のコンパクト化にも成功しており、さすがだなぁと拝見していました。渋沢(と昭武)が敵前逃亡した慶喜に怒るシーンもちゃんと映像化していましたしね。
さて今回のコラムは、ドラマではあえて(?)描かれなかった、「鳥羽伏見の戦い」で慶喜がとった謎めいた行動の裏側を読み解こうかな、と思っています。おそらく22日の放送で多少、情報が補完されるでしょうが、パリの昭武に送られてきた慶喜の手紙のように「日本人同士で争っている時期ではないので、あえて引いた」的な説明だけで納得できる事件ではありませんから。
慶喜は「鳥羽伏見の戦い」が勃発する数週間ほど前まで、在京の旧幕軍が薩摩軍に報復攻撃をすることで内乱に発展することを恐れていました。
具体的には慶応3年(1868年)12月12日まで、二条城の城内に慶喜に付き従っていた旗本約5000人、会津兵約3000人、桑名兵約1500人を全員、自分も滞在している二条城の門の中に閉じ込め、「薩摩関係者への報復を禁じる」と厳命していたことがわかっています(この中に土方歳三ら旧・新選組の面々もいました。すでに40名ほどに激減してしまっていましたが……)。しかし二条城は手狭で、「いつの日か薩摩藩の非を私が問うから」という慶喜の口約束だけでは怒れる兵士約9000人が静まるわけもなく、二条城内に押しとどめるには限界がきてしまったのです。
しかしこれは表向きで、慶喜と旧幕軍はそのように事態を装って、二条城から大坂城への移動を開始しました。晩年の渋沢栄一が編纂した『徳川慶喜公伝』は慶喜の“言い訳”を大幅に採用しているのですが、それによると、大坂城に向かった理由を慶喜は「予は、天皇の足元の都で争乱を発することを恐れ、別に深謀遠慮があったわけではないけれども、ただ現下の形勢を緩和したいばかりに、ひとまず大坂に下ろうと決心した」などと述べています。「別に意図はなかった」とわざわざ言うあたりが言い訳っぽくて実に怪しいのですが(笑)。
大坂城は「天下の名城」ですから、そこへの移動と聞いた旧幕軍の兵たちは「にっくき新政府軍との戦がいよいよ始まる!」とテンションを上げたことでしょう。新政府側にも、「慶喜が戦に備えて行動を起こした」という見方がすでに広がっていました。ところが慶喜は、まるで敗北を予感していたといえるほどに沈鬱な顔をしていたようです。
大坂城へ向かう道中、慶喜は「黒い頭巾」の上に「普通の軍帽」という和洋折衷の姿での騎馬移動だったそうですが、イギリスの外交官アーネスト・サトウは彼の顔が「やつれて、物悲しげであった」と証言しています。その理由を語る資料はありませんが、この移動時に何らかのトラブルがあったのかもしれません。そうでなくてもサトウは、兵士たちがバラバラで「異様な服装」をしていたことを指摘しています。「(日本風の)水盤型の陣笠や平たい帽子をかぶった者もいた。武器も長槍、あるいは短槍、スペンサー銃、スウィス銃、旧式銃、あるいは普通の両刀など」ということで、人数だけは多いけれど、装備がバラバラな彼らを「本当にまとめあげることができるのだろうか」という不安が慶喜の中に芽生えても当然のような状況だったようです。
しかし、それと同時に慶喜の中では、「ここで大きな賭けに出るしか、事態を挽回する方法はない」という真逆の気持ちも高まりつつあったようです。年が改まった慶応4年1月1日、大坂城内で大きな動きがありました。慶喜の名義で「討薩の表」が発表されたのです。これは要するに「御所から薩摩という奸臣どもを追い出せ」とアジる文書なのですが、慶喜本人の後年の発言をまとめると「部下が作った檄文に、サインさせられてしまった」という経緯である一方、明治新政府側が当時得ていた情報では「慶喜本人が作成した」文書となっています。
ただ、西周(にし・あまね)という学者が、慶喜が作った「討薩の表」草稿の推敲を、前年の12月中に本人から依頼されて作成したと発言していますから、慶喜には明確な戦意があり、それなりに周到に「鳥羽伏見の戦い」に向けての準備を進めていたことは事実だといえます。
つまり、『青天~』で慶喜が「薩摩と戦う意思はなかった」と言っていたのは史実ではありえません。『青天~』の演出は、慶喜のことを「臆病者といわれることを見越し、自分の名誉を損ねても、天皇に歯向かうことだけは避け、内乱回避に努めようとした“名君”」として描くためでしょう。
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