徳川慶喜の描かれ方とフィクションとしての「御遺訓」──“異色”の大河『青天を衝け』これまでの総括とこぼれ話
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『青天』で慶喜と渋沢が唱和した「御遺訓」、実は徳川家康の作ではない?
これまでのコラムでは触れられなかった内容についても記しておきましょう。渋沢と慶喜が、生まれた身分や立場を超え、「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくがごとし」に始まる「東照宮御遺訓」の一節を唱和したシーンは興味深いものでしたよね。
「人の一生は~」で始まる例の「御遺訓」は、徳川家康のオリジナルではありません。どこから発祥し、また、いつから「人の一生は~」というフレーズが有名となったかも、正確にはわかっていないのですね。
徳川家康の月命日にあたる17日には、将軍家や御三家などでも「御遺訓」にあたる文章を、当主がその家族と共に唱えることは通例でした。しかし、各家によって読まれるテキストがそれぞれ異なっていたこともわかっています。家康を祀る東照宮には、慶長9年(1604年)の日付を持つ「御遺訓」の存在が確認されていますが、この由来も本当は謎めいているというのが正しいところでしょう。
“江戸時代に「神君」である家康公ならこういう遺言を残してもおかしくない”というフィクションの遺訓を、江戸時代の徳川の一族がその歴史のどこかで作り出し(もしくは誰かに作らせ)、それを家康公のオリジナルとして伝承していたらしいことは実に興味深いものです。
番組で朗唱されたバージョンの「御遺訓」については、江戸時代後半の1830年(天保元年)成立の『天保会記』に含まれる「人のいましめ」という教訓的な文章の中の一部が基になっています。『天保~』は、尾張藩の書物奉行だった深田正韶という人物が中心となって編纂された本です。ここで意識すべきは、“伝・徳川光圀”、いわゆる水戸黄門が著者だと推定されていること。つまり当初は、家康ではない人の文章として認識されていたものが、いつのまにか家康の言葉になってしまったという点です(ちなみに『天保~』は渋沢が生まれる約10年前に編まれた、比較的新しい書物です)。
徳川家康の遺言については、より古い時代から存在していたことが知られる別のものもあります。江戸時代中期、1715年(正徳5年)に写本が作られた、通称「東照宮御教訓」なる書物です。興味深いことですが、この「御教訓」には、例の「御遺訓」の内容は含まれていません。
「人の一生は~」を書いたのは誰なのか? そしてどういう経緯を経て、徳川光圀から徳川家康の作に著者が変更されたのか?などの疑問は今日でも解決されていないのです。
そもそもなぜ、徳川家康の“遺言”というべきメッセージが乱立するようになったのかという問題もあります。それについては、最晩年の徳川家康は史実で見る限り、『青天~』の家康公のように子孫たちを優しく見守る存在とはいえなかったからでしょう。驚くかもしれませんが、家康は16人いた子供たちの誰にも、遺言らしいメッセージは残さなかったようです。
それでは徳川家康の実際の最晩年とは? それはあまりに人間臭いものでした。史実の家康はその人生の最期において、それを総括できるような状態、つまり「子孫たちに遺訓でも残しておこうか」という境地になる前に命が尽きてしまったらしいことが、史料の間からは透けて見えてくるのです。
「鯛の天ぷらの食中毒で亡くなった」などと一般には言われている家康ですが、鯛のすり身を材料にした、当時流行していた揚げ物を食べた日に体調をくずし、3カ月ほど苦しんで元和2年4月17日(1616年6月1日)に亡くなったというのが史実です。享年75歳。当時ではかなりの長命でした。
今日の医学では末期の胃がんだったといわれていますが、腫瘍の存在が腹部を触るだけでもわかるほどだったようですね。家康は相当な健康オタクであり、医師の見立てを信用しませんでした。腹部のしこりを「サナダムシに違いない」と主張したのです。「残念ながら、そうではない」という医師の見立てを家康はおそらくは「死にたくない」という一心で否定、虫下しの薬を飲み続け、逆に命を縮めてしまいました。
家康の身を案じ、「虫下しの薬だけはやめて」と、家康の嫡男・秀忠の口を通して進言する医師もいましたが、自分の病状が終末期であると信じたくなかった家康は感謝するどころか取り乱し、その医師を流罪にまでしました。最期まで生きようと、「もがいていた」のです。
どうも「苦労人は、人格者であってほしい」ということを、江戸時代の人も現代の我々も考えがちですが、苦労の有無と人格者になれるかどうかは、実際は別問題のようですね。「大河ドラマ」も史実と演出のバランスが大事ですが、演出、つまりはフィクションのほうが、逆に「史実っぽい」などと思えることは、歴史の中には時々存在しうるのです。北大路欣也さんが演じる風格ある徳川家康なら、「子孫のことなど考える余裕もなかった」という姿は想像もできませんから。
イジワルな内容も今回はいろいろと含ませましたが、それだけ『青天~』という作品に期待するところが大きいということです。今後もわれわれをワクワクさせてくれる作品でありつづけることを願ってやみません。
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