『青天を衝け』で詳しく描かれなかった「大政奉還」 徳川慶喜の誤算と「戦争好き」西郷隆盛の暗躍
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突然の「大政奉還」という奇策における慶喜の誤算
10月半ばの大政奉還以降も、国政を取り仕切るのは(旧)幕府のままでした。一方、朝廷側は当初、全国から大名たちを京都に呼び集め、合議によって新政権のあり方を決めるという計画を立てていました。しかし「11月中には京都に出てくるように」とのお達しがあったのにもかかわらず、多くの大名たちは病気を理由に京都に集まろうとしなかったのです(ちなみにドラマでは慶喜が空咳をしていましたよね。あの演出も当時、全国的に蔓延していた流行病を匂わせるものだったのかもしれませんが)。
これは、慶喜による大政奉還が根回しゼロで、突然すぎたことが(武力倒幕開始を直前で阻むという理由があったにせよ)悪いほうに影響した結果でした。「徳川将軍家は朝廷に権力を徐々に返していくべきだ」と昔から論じていた松平春嶽でさえ、慶喜の突然の大政奉還には驚き、呆れてしまっていたくらいです。ドラマでは慶喜と松平が懇談し、理解しあうシーンが描かれていましたが、あんなに和やかな場面はなかったと想像されます。
ちなみに、歴史創作物の類では、突然の大政奉還にびっくりした朝廷が「もう一度、将軍をやってくれないか」と頼み込んでくると考えていた慶喜が、これを利用して自分の権威を回復しようと目論んでいた……と語られることが多いのですが、それは微妙に史実とは異なります。
慶喜としては、全国の大名と公家たちによる会議で新体制が発足され、その幕府に代わる新体制の長に、大名、公卿たちから推薦されて自分が君臨する未来を希望していたことが最近の研究ではわかっています。しかし、慶喜の真意を(彼ほどには頭が切れない)全国の大名たちは理解できず、ヘタに会議に出てヘンなことを言ったら命取りとばかりに、仮病を使って出席すらしてくれませんでした。
この頃から、状況は慶喜にとって思わしくなくなります。
慶応3年12月9日未明、ドラマでも出てきましたが、かねてより、新政府内で有利な立場を狙おうと話し合っていた薩摩、土佐、越前、尾張、芸州の五藩が派遣した兵たちが、御所の9つの門を突然封鎖する事件が起きます。これにより、岩倉具視などの一部の公卿、宮家の人々以外は御所に出入りできなくなってしまいました。慶喜はもちろん、当時の朝廷の最高権力者だった摂政・二条斉敬すら御所から締め出されたのです。
こうして始まったのがいわゆる「小御所会議」です。そこでは慶喜の想像を超えた、超革新的なことがいろいろと決まってしまったのですね。会議というより、革新派が守旧派を締め出した上で行った、一種のクーデターというのがその実情です。
大政奉還後も政治を担当していた(旧)幕府は、ここで組織そのものが廃止されることになります。また、朝廷内でも、摂政・関白など旧来の統治システムが摂政当人を締め出した中で廃止され、参与といった新しい役職が置かれることになりました。岩倉たちが構想した「王政復古」の本格的なスタートです。
同9日夕方6時頃から明治天皇の御前で、皇族、公家、大名、そしてその家臣らによる議論がはじまりますが、場の空気は荒れました。
ドラマでも描かれたとおり、土佐の山内容堂などは「慶喜公がここにいないことがおかしい」などと発言、岩倉具視などを最初は圧倒していましたが、史実では泥酔しており、失言を繰り返すうちに慶喜排斥派の岩倉が盛り返してしまいます。結果的に、王政復古で生まれた新しい政体において、徳川家当主である慶喜が指導的役割を果たすことは困難となってしまいました。
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