『青天を衝け』で詳しく描かれなかった「大政奉還」 徳川慶喜の誤算と「戦争好き」西郷隆盛の暗躍
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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ
『青天を衝け』、ついに「大政奉還」が取り上げられました。非常に大きなテーマですが、文字数が許す限り、幕末史上最大の事件のひとつ、大政奉還とはどんなものだったかについて、おさらいしてみましょう。
慶応3年(1867年)10月13日、徳川慶喜は京都・二条城に、在京中の各藩の有力者たちを集めました。集まったのは10万石以上の40藩からわずか50人程度です。ドラマでは「聴衆がやけに少ない」「えらく淡々としているな」と感じた人もいるでしょうが、本当にああいう感じだったようです。
最近発見された「寺田家文書」によると、当日、慶喜の姿はなく、老中・板倉勝静(いたくら・かつきよ)が「政治の実権を約260年も握り続けてきた徳川幕府の将軍として、その権力を朝廷にお戻ししようと思う」という慶喜からのメッセージを伝えただけだったようです。存在意義を失った幕府は解体され、将軍も退位となるわけですが、50人の聴衆たちの中に表立って反論する者は本当に誰もいませんでした。「上様!」などと泣き出す家臣たちの姿もありませんでした。
あまりに突然で衝撃的な内容だったので、聞き手を思考停止させてしまったこともあるでしょう。集まったのは各藩の家老職などが中心だったため、「ひとまず国元に帰って、意見を聞いてきます」と言うのがやっとだったそうです。拍子抜けするほど、あっさりした幕切れでした。しかし、そんな大事な判断をわずか50人程度の聴衆を前に表明しなくてはならなかったあたりに、急がざるをえない状況に慶喜は置かれていたことがうかがえるのです。
ドラマでも描かれていたように、当時、薩摩藩の西郷隆盛がゴリ押しして、今にも武力倒幕計画を開始しようと企てていました。内乱の危機です。しかし、それも将軍が政権を朝廷に返上してしまえば、わざわざ戦争して倒幕する大義名分は消え去るわけです。慶喜はこれを実行することで、内乱の勃発を未然に回避できました。ちなみに慶喜に大政奉還という「戦争回避策」をアドバイスした中心人物は、西郷と同じ薩摩藩の小松帯刀でした。今年のドラマには惜しくも小松は出てこないようですが、この時期のキーパーソンの一人といえます。
読者に覚えておいてほしいのは、幕末期の薩摩藩は、藩をあげて倒幕に熱心だったというわけではないという事実ですね。また、朝廷側もすんなりと慶喜による突然の「政権の返上」を受け入れたわけではありません。時の朝廷の有力者だった摂政・二条斉敬は、慶喜の大政奉還の真意を測りかねていました。そこで小松帯刀(や土佐藩の後藤象二郎)が、二条を説得。二条の後押しで朝廷も政権返上をようやく受け入れるというところまで持っていったのでした。
日本の平和は、西郷という野心的すぎる薩摩藩士の一念によって危うくされましたが、それを阻んだのも小松という良識派の薩摩藩士だったということです。西郷と小松の関係は、のちに修復されますが、「西郷は、何をしでかすかわからない要注意人物」との風評が薩摩藩内にもあったことは注目されるでしょう。
実に複雑なやりとりの末、朝廷は徳川幕府に代わる、天皇を中心とした新しい政治の形を模索するようになります。しかし、ドラマでも描かれたように、「王政復古」の体制がすぐにスタート!・・・・・・とはなりませんでした。
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