乃木坂46の「世代交代」を前提とする議論に異議あり! 「卒業」のモデルを絶対視しなくてもいい理由
#アイドル #世代交代
白石麻衣の「ノースキャンダル卒業」を讃えることの問題点
──確かに、メンバーたちが古いアイドル像――たとえば、男性的な視線で客体化される受動的な存在の象徴だけであるかのように語られてしまうのはつらいことです。
香月:はたから見てそう断じられるくらいには、アイドルというジャンルは構造的に根深い問題を抱えているわけで、それに対する自覚は大切です。けれどもまた、メンバーはアイドルというフィールドの上で個々に実践を続けているし、SNSを含むさまざまな方法で意思を伝えている。誰から見ても明快にわかりやすいパワフルさだけがエンパワーメントというわけではないですし、メンバーそれぞれのスタイルで行っている発信にもっと着目したいですね。そうした日々の細かな実践は、アイドルをめぐる大枠の議論の中では、ともすれば無視されていってしまう。
アイドル自身の実践に価値を見いだすことと、アイドルシーンの問題性に批判的な目を向けることはもちろん両立しますし、その両者の間に留まって考えることが大事なんじゃないかと思います。アイドルを取り巻く環境を少しずつでもいいものにできないかということを考えていきたいですね。
──その姿勢は、ご著書の『乃木坂46のドラマトゥルギー』でも書かれていますね。
香月:大量に生産されるアイドルの歌詞の中には、ストレートなメッセージとして発信されるべきではないものもあると思います。一方で、アイドルというのは楽曲から衣装、振り付け、アートワークや、演者のパフォーマンスまで、多くの人々のクリエイティブを束ねた総合的な表現形態です。たとえば、乃木坂46ならばアートワーク面のクオリティが強みでもありますよね。アイドルの表現のうちに生まれたそれら各クリエイティブの豊かさやメッセージ性に、むしろ歌詞が追いついていない場合だって全然あるでしょう。アイドルは、きわめて多面的な表現なので、どのようなバランスで受け止めればいいのか、単純なことではないと思います。無頓着にすべてを肯定するのがいいわけではないですし、かといって極端に全否定してしまえば、彼女たちのアウトプットの意義までないがしろにしてしまいます。
──さっき古いアイドル像の話をしましたが、実は、乃木坂46を応援していて、自分も彼女たちを都合のよいように“消費”しているのではないかと葛藤を感じることもあります。
香月:「見られる」ことが職能になっている以上、ジャンルを問わず何かしら人格を消費してしまうことはおそらく不可避だと思います。だからこそ、消費していることへの自覚を受け手が持ち続けることは大事ですよね。ただし、もちろん演者側の表現もあるので、それが主体なのか客体なのかを単純に決めてしまうことはできませんが。
──だからこそ、その葛藤を跳ねのけるくらいの主体性をメンバーたちに見せてもらいたいんだと思います。
香月:もちろん、ファンが彼女たちに見いだす「主体性らしさ」さえも、ある程度までは受け手側の幻想ではあります。また、たとえばメンバーたちの主体的な実践と、女性に対する偏見や抑圧を再生産することが両立してしまうケースも、アイドルシーンでは少なからずあると思います。
たとえば、ライブなどのMCで、メンバーの間で「年齢いじり」が行われるような場合ですね。アイドルが能動的に立ち居振る舞い、自らを発信していく活動の中で、社会のなかで繰り返されて習慣化してきたエイジズム的な身振りが、自然に選択されやすくなっている。だからこそ状況は複雑なのですが、アイドルに主体性を見いだしたいという感覚自体はよくわかります。
──それから、ファンが思う理想の姿をアイドルに期待するときに、「恋愛禁止」みたいな方向に向かってしまうのは危険だなと思います。
香月:アイドル自身を抑圧し続けているのが、アイドルの「恋愛禁止」を“当たり前”のことのようにしている風潮ですよね。ファンがアイドルの言動に喜んだり失望したり、さまざまな感情を抱くこと自体はごく自然なことです。個々人が心の内でどう感じるかはコントロールできるものではないし、すべきものでもない。けれども、アイドルの恋愛に失望するファンがいたとしても、アイドルのパーソナルな生き方が実際に干渉されたり縛られたりすることへの正当化にはなりません。ファンがそれぞれに抱く感情が自由であることと、「恋愛禁止」が実質的なルールとして強制力を持ってしまっていることへの問い返しとは、分けて考えることだと思います。
──昨年、白石麻衣さんが乃木坂46を卒業したときも、「ノースキャンダルで卒業」したことが称賛される文脈で報じられました。つまり、メディアは「恋愛禁止」をあくまで肯定的なことのように捉えています。
香月:メディアも共犯関係のようになって、「恋愛禁止」を自明のものとする言説を積み重ねていく。その風潮ないし“ルール”が人々に内面化されて、そもそもの風潮自体のいびつさが問われなくなっていくのは怖いですね。とはいえ、アイドルグループに所属しつつ、結婚などを選択する事例は、新潟のご当地アイドルNegiccoや、でんぱ組.incの古川未鈴さんなど、実際に生まれてきていますし、少しずつでも変化は見られています。そうした例からもうかがえますが、アイドルのパーソナリティに愛着を感じたり応援したりというファンの感情は、よく言われがちな「疑似恋愛」というステレオタイプに回収できるほど、単純なものではありません。
──主体的にアイドル本人が人生を選び取る姿を見たいですし、応援したいと思います。
香月:恋愛や結婚をすること/しないことのどちらかがより偉いわけではないですし、パートナーの存在を公表すること/しないことのどちらかが尊いわけでも、もちろんありません。どんな生き方であれ当人が“選択”できることこそが大事なはずですが、アイドルシーンにはそれを侵害することが看過されやすい、あるいは正当化されやすいという問題があります。個人的には、そうした抑圧がなければアイドルの何かが毀損(きそん)されてしまうと考えるのだとしたら、それはアイドルという文化表現の豊かさを矮小化してしまっているんじゃないかと思います。
もっと言えば、アイドルの「恋愛禁止」は、異性愛こそを「恋愛」の標準とするような価値観を含んでもいます。恋愛禁止の風潮は、実質的には異性間の関係においてのみ、ことさらに取り沙汰されて「スキャンダル」化されている。つまり、そもそもパーソナルな生き方を規制すること自体のいびつさと同時に、異性愛こそを「恋愛」のスタンダードとして表象してしまう、フェーズの異なる二重の抑圧を「恋愛禁止」は生み出しているんですよね。
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