『あちこちオードリー』歴史の傍流? “生ぬるさの申し子”中山秀征のバラエティ史観
#中山秀征 #あちこちオードリー
「俺の見てたテレビを俺はやりたかった」
令和になって打順が回ってきた。中山の言い分に耳を傾ける時代が巡ってきたのだ。ダウンタウン史観があるように、誰も気に留めなかった中山史観も存在する。それを掘り下げるべく、若林がトスを上げた。
若林 「ヒデさんがブレなかったのもカッコいいですね、そこで」
中山 「『俺が見てたテレビはそうじゃなかった』っていう自分の感覚かな。いろんなテレビがあっていいんだけど、俺の見てたテレビを俺はやりたいだけなんで」
ただ流れに身を任せてバラエティしていたのではなく、中山は中山で自身のスタイルをゴリゴリに貫いていたということ。当時の今田がUだとすると、中山はきっちりプロレスで対抗するディック・マードックやバズ・ソイヤーのようなタイプか? ……なんて喩えは、褒め過ぎだろうか。つまり、やられっぱなしじゃなかったのだ。
「俺は(今田を)“今ちゃん”って言ったけど、(今田は“ヒデちゃん”ではなく)“中山くん”って。“中山くん”でもいいんですけど、テレビって初対面でも初めてじゃない感じで始めるじゃない? でも、あえて“中山くん”って。俺、新鮮だったね(笑)。急に固い番組になって距離を感じるでしょ」(中山)
いや、事実と異なる点が1つだけある。当時、今田は周囲から“今ちゃん”と呼ばれていたのに、中山はあえて“耕ちゃん”と呼んでいたのだ。決して、彼はやられっぱなしではなかったし、それ以前に中山の距離の詰め方もおかしかった。
お笑い好きの気持ちを代弁していたナンシー関
『殿フェロ』が放送されていた時期とダウンタウンに最も勢いがあった時期、両者のタイミングはそっくりそのまま被る。「面白い/面白くない」の線引きは今より格段にシビアだった。当時のディープなお笑い好きは手を持っても極めにいかない(極めにいけない)中山を見下していたし、中山という存在を半笑いで見ていた。
「俺はナンシー関に散々言われるんだから。『生ぬるいテレビを作った』というような。和気あいあいとしたものを垂れ流しているというか。生ぬるさを作ってるわけじゃないですか、こっちは。例えば、『DAISUKI!』(1991年~2000年/日本テレビ系)とか。生ぬるさというか“ゆるさ”だな。それが生ぬるいってことになって、全体的に俺がやってることが生ぬるいと」(中山)
コラムニストの故・ナンシー関は、中山を“生ぬるいバラエティの申し子”と評した。「『生ぬるさの申し子』を『生ぬるさを作った男』に改竄するな」という中山への批判をよく耳にするが、そこはあまり大した問題じゃない。立ち位置が何であろうと、ぬるいことばかりやる彼の生き方が認められなかった。中山についてナンシーは以下のような文を残している。
「私が最近1番嫌なのが中山秀征。こいつの態度たるや噴飯もの。基本的姿勢は『最後まで気取れないのがお笑いの宿命なんすよ、オレって』であるが、こいつはお笑いなのか。誰も認めとらんぞ。根本的なところでお笑いを差別してる。俳優を名乗るときにはちゅうちょしたり『自分ごときが』といった態度をとるくせに、お笑いは無審査だと思ってる」(『続キンゴロー』ワニブックスより)
過激な文章だ。しかし、当時の世間が抱いていた思いと大差ない。あの頃のディープなお笑いファンの総意である。中山や森脇健児、山田雅人ら「2.5枚目」と呼ばれる面々は、ゴリゴリのお笑い好きからすると蔑視の対象だった。
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