【格闘王・前田日明と「リングス」の曳航 Vol.4】幻のヒクソン戦、奇跡のカレリン戦、そしてPRIDEとの相剋
リングス vs PRIDE
〈 カレリンって西シベリアの石油の権利を全部持ってるんです。個人で。当時のロシアのオリンピック連盟とか、アマチュアレルリング連盟の運営資金はカレリンのポケットマネーでかなり潤っていたみたい。〉
1999年2月21日、横浜アリーナ。「前田日明 引退試合 ~The Final」の当日、英雄はプロのリングに上がり、格闘王とついに対峙した。
〈 最後の試合なんで。「勝とう」とか「負けまい」とかする以前に、俺の人生に箔をつけたかった。そのために、二つのことを何とかやってやろうと思ったんです。一つはカレリンからエスケープというか、一本取ること。もう一つはカレリンをタックルでテイクダウンする。この二つができたら、アマチュアレスリングをやってる世界中の奴らに一生自慢できるなと思って(笑)。
一本は取ったんですけど、さすがにテイクダウンは無理でしたね。〉
前田戦の翌年、2000年9月のシドニー五輪決勝でオリンピック4連覇をかけ、カレリンはルーロン・ガードナー(米国)と対戦。自らのクラッチが外れたことによりロストポイントを取られてしまう。これが響いて最終的には判定負けを喫した。
〈 テイクダウンはできなかったから、ついでに「カレリンが4連覇できなかったのは俺のせいや」って言ってます(大笑)。〉
前田の引退から8カ月が過ぎた同年10月28日。リングスは字義通り時代を画す大会の開催に踏み切る。「~WORLD MEGA BATTLE TOURNAMENT~KING of KINGS」である。
優勝賞金は20万ドル(当時の為替相場で約2300万円)、賞金総額が50万ドル(同じく約5750万円)。当時の格闘技界では類を見ない金額の設定だった。プロモーター前田の並々ならぬ意気込みがうかがえる。
ちなみに翌年行われた「PRIDE GRANDPRIX 2000」は優勝賞金2000万円を争奪するトーナメント戦。規模を縮小しながらも企画の骨子は模倣された。
この大会からリングスは「KoKルール」を採用。オープンフィンガーグローブを着用し、MMA(Mixed Martial Arts、総合格闘技)の世界標準にほぼ近づいた。ただし、パウンドは禁止である。
〈 当時でもパウンドはまだ米国内でも、ラスベガスあたりでちょろっと許されているぐらい。他の地域では禁止だったんです。欧州もほとんど全部禁止。電波と有線による放映はできませんでした。そのころはまだ「恐らくパウンドってやっぱり許されないんだろう」と思ってた。でも、リングスで積み上げてきたことはある。バーリトゥードに対して爪痕を残さないといけないんで、何かをする必要があったんです。KoKは敢えてやった。
WOWOWと交渉して、放映権料を年間で3億5000万円ぐらいに上げてもらいました。全部ギャラに使いましたよ。一銭も残さずにね。〉
KoKはリングス史上空前のヒット企画となった。パウンドを禁じたことでグラウンドでの極めの攻防がよりスリリングに展開。寝技で膠着すると、早めにブレイクをかけ立たせる。ビギナーにも、マニアにも受けた。
ネットワーク内部ではエメリヤーネンコ・ヒョードル(リングス・ロシア)やアリスター・オーフレイム(リングス・オランダ)が台頭した。アントニオ・ロドリゴ・ノゲイラ(ブラジル)やレナート・ババル(同前)、ダン・ヘンダーソン(米国)ら未知の強豪も多数参戦。翌年の第2回大会のころには桜庭和志の「グレイシー狩り」をテーマに人気を集めていたPRIDEよりも「面白い」と言い切る関係者もいたほどだ。
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