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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 前田日明と「リングス」の曳航(3)
リングス旗揚げ30周年記念 短期集中連載『天涯の標』

【格闘王・前田日明と「リングス」の曳航 Vol.3】群雄割拠の中、“最強の格闘技”を目指して

「バーリトゥードルールは日本ではできない」


リングスの運営面のみならず、自ら若手育成に注力したが、その負担は甚大なものだった。

  リングスの名物企画「後楽園実験リーグ」が幕を開けた1993年に話を戻す。前回で触れた通り、この年、第1回の「アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ(UFC)」が開催された。金網で囲われた「オクタゴン」と呼ばれる8角形の試合場で繰り広げられる「バーリトゥード(何でもあり)」のトーナメントは格闘技界に激震を呼ぶ。「ノー・ホールズ・バード(やってはいけないことはない)」とも呼ばれたUFCのルールは次の通り。

 ・体重無差別、時間制限なし

 ・8人制ワンデイトーナメント

 ・ブレイク、判定決着なし

 ・反則は目潰しと噛みつき、金的攻撃のみ

 ・レフェリーには試合を止める権限はない

 優勝をつかんだホイス・グレイシーの闘いぶりは総合格闘技の技術体系に変革を迫る。

 前田はカール・ゴッチからキャッチ・アズ・キャッチ・キャン(キャッチレスリング)の技術を授けられた。リングスの源流はここにある。師弟は武道精神に傾倒する点でも共通していた。

 〈「あれは日本ではできない」──そう思いました。倒れている対戦相手に馬乗りになって顔面を殴打する。武道精神に照らしても、競技としても、あっちゃならんことじゃないですか。テレビでも放映できないと思った。当時、現実問題として、パウンドありのバーリトゥードルールの電波での放映が認められているのは、ブラジルでもリオデジャネイロ州だけだった。米国ではほとんど駄目だったし、欧州では全然駄目。その後、何年かしたら、米国なんかでやりだしましたけど。あれが認められるとは思わなかった。

 パウンドルールが国内で認められるようになる過程ではリングスが利用されました。1997年にPRIDEが発足して、一番最初に会場を借りるときに、申請書に「総合格闘技」と書いたそうです。会場側に「どういう競技ですか?」って聞かれると、「リングスみたいな競技です」って答えたらしい。リングスの名前が便利に使われたわけです。

 リングス自体は前例がなかったんで大変でした。例えば、日本武道館を借りようとしても、最初は貸してもらえなかった。「総合的にパンチ、キックから、投げ、極め、締め、全部あるんです」と説明したら、「まるで喧嘩じゃないですか。そんな競技には貸せません」となる。武道館の事務所に何度か通いました。で、ようやく貸してもらえるようになった。

 そういう作業を繰り返して、いろんな会場や関係者に認知してもらえるようになったんです。後発のPRIDEが出てくる道をリングスが造ってやったようなもんですよ。〉

 すでに歴史を持つ総合格闘技団体は新興のバーリトゥードルールへの対応を迫られていた。日本プロシューティング(現修斗)は1994年から「ヴァーリ・トゥード・ジャパン」を開催。ホイスが「僕の10倍強い」と断言した実兄ヒクソン・グレイシーを招聘し、UFCに近いルールで闘うトーナメントである。

 1995年、この大会にリングス・ジャパン所属の山本宜久が出場。前田はセコンドについた。

 佐山聡が主宰する団体の興行に前田の弟子が参加する。古くからのファンは複雑な思いで見守った。

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