『ヒノマルソウル』はオリンピック賛美のプロパガンダ映画ではない!その理由を解説
#ヒノマルソウル 舞台裏の英雄たち #予告編 #スキージャンプ #プロパガンダ
欺瞞にならない、細心の注意が払われた脚本作り
予告編で問題視されていた「悪天候の中、25人のテストジャンパーが全員飛ぶことに成功したら、競技が続けられる」という展開はもちろん本編にも存在する。しかし、主人公の西方は真っ先にこのジュリーからの打診を「俺たちはモルモットじゃない!」と真っ向から批判し、コーチも彼らの命を危険に晒させないと突っぱねるのだ。
では、テストジャンパーたちは、最終的に何のためには飛ぼうとするのか?ネタバレになるので具体的には書かないでおくが、その決断には彼ら1人1人の人生への思いが詰まっており、西方も前述した「屈辱と嫉妬の感情」に向き合うことになる。「金メダルのため」や「日本のスキージャンプの未来のため」といった単純な大義名分を超えた、それぞれのパーソナルな理由があり、中には愛情と表裏一体の「エゴ」と言い換えても成り立つものもあった。
主人公の西方を筆頭に、複雑な感情が渦巻く人間ドラマが築かれた上で、「命を最優先にする」価値観も十分に描かれているため、自己犠牲を美談として押し売りするような不快感はまったくなかった。バランスよく、欺瞞にならないよう、細心の注意が払われた脚本作りができていたのだ。
そして、日本中の期待を背負う代表選手のみならず、記録にも記憶にも残らない裏方の仕事のはずのテストジャンパーたちが「それでも絶対に飛びたい」までの痛切な思いを抱えていることを知り、そしてその先で彼らが「達成」できたこと、特に長年にわたって葛藤していた西方が「手に入れたもの」には確かな感動があった。それは、彼らが個性豊かな血の通った人間として描かれたおかげでもある。
その感動は、映画という媒体でしか描けないものだ。普段のニュースや新聞で観るのはトップアスリートの輝かしい活躍ばかりであり、過酷な上に地味に見えるテストジャンパーの仕事、ましてや代表選手に選ばれなかった屈辱や嫉妬の感情など、スポットが当たることはほとんどないのだから。それでいて、ワイドショー的に恣意的に誘導することなく、観客がそれぞれのテストジャンパーそれぞれに思いを馳せ、心から感情移入できるのだから。
ちなみに、劇中には1998年長野五輪の当時、スキージャンプに女子部門がなかったにも関わらず、テストジャンパーの仕事に就く女子高生も登場する。「どうしたってオリンピックに出られない」彼女が、それでも飛びたいと願う理由にも、グッとくる人は多いはずだ。
●観る前のイメージで判断してしまうのは、あまりにもったいない。
『ヒノマルソウル』の飯塚健監督も、Facebookで「一つ、これだけは言っておきたい。プロパガンダ映画ではない」と強調したコメントをしている。実際に観てみれば、それが本当であることは伝わるだろう。
だが、本作が政治利用される可能性もゼロではないだろう。前述した通り劇中では複雑な感情が渦巻いており、自己犠牲を賛美することも避けているのだが、見かた次第では「代表選手やテストジャンパーたちは人生や命をかけてでもオリンピックを成功させたいと願ってた」という単純な解釈もできるため、「だから、彼らの思いに応えるためにも東京五輪も開催すべきなのだ」という今の状況への転換もできてしまう。言うまでもなく、選手だけでなく世界中の人々を危険に晒すことになる今の東京五輪とは、根本の問題が全く異なるのだが……。
なお、『ヒノマルソウル』は新型コロナウイルスの感染拡大、および緊急事態宣言における映画館の再休業により、2度に渡る公開延期の憂き目にあった。その結果、オリンピックそのものを、多くの国民が反感を覚えるどころか憎悪してしまうタイミングで公開されたのは、なんとも気の毒だ。政治利用されなかったとしても、本作になんとなくのイメージで反感を持っている方も少なくはないだろう。
しかし、それはあまりにもったいない。『ヒノマルソウル』はオリンピックおよび東京五輪の開催の是非などとは関係なく、キャストとスタッフが熱意を持って人間ドラマに取り組んだ、極めて誠実に作られた映画だったのだから。観る前の印象はもちろん、劇中の出来事にもバイアスがかかってしまうことは致し方がないが、それでも「観ればわかる」完成度と志の高さがあると、筆者は訴えたい。ぜひ、劇場でご覧になってほしい。
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