『大豆田とわ子』『生きるとか死ぬとか父親とか』“箱の中身”が組み直すいくつかの関係
#ドラマ #テレビ日記 #生きるとか死ぬとか父親とか #大豆田とわ子と三人の元夫
テレビウォッチャーの飲用てれびさんが、先週(6月13~19日)に見たテレビの気になる発言をピックアップします。
蒲原トキコ(吉田羊)「私は母の人生について、本人の口から何も聞けなかったことをとても後悔していた」
最終回を目前に控えたドラマ『生きるとか死ぬとか父親とか』(テレビ東京系)。コラムニストやラジオパーソナリティーなどとして活躍しているジェーン・スーの、自伝的なエッセイを原作とした物語だ。主人公の蒲原トキコを吉田羊が、父親の蒲原哲也を國村隼がそれぞれ演じている。
ストーリーの中心には、トキコによるエッセイの執筆が置かれている。エッセイのテーマは、自身の父親について。第1話で彼女はその執筆動機を、「私は母の人生について、本人の口から何も聞けなかったことをとても後悔していた。父に対して、同じ思いをしたくないのだ」と語っていた。
しかし、エッセイの内容は次第に、父というより亡くなった母(富田靖子)の人生に踏み込んでいく。自分たち父子が理想化して語ってきた母。理想化するがゆえにその人生の一部が忘却の彼方に追いやられてしまっている母。そんな母を見つめ直したいという思いが、父親に向き合う中でトキコに芽生え始めたためだ。
18日に放送された第11話は、トキコがある出来事をエッセイに書くと決めたところから始まった。その出来事とは、母の死後、母との思い出が詰まった実家を父が売却し、引っ越さざるを得なくなったことだ。執筆を始めるトキコ。しかし、途中でキーボードを打つ手が止まり、その先を書き進めることができなくなってしまう。そこで彼女は、自分が記憶の底に沈めて蓋をしていたある事実を思い出す。引っ越しの作業中、トキコは引き出しの奥に母の衣装ケースを見つけていた。
執筆を中断したトキコは、母の衣装ケースを改めて取り出し、蓋に手をかける。そこに松岡茉優が演じる20代のトキコが幻影のように現れ、「本当に忘れてたの?」と声をかける。「忘れなきゃ、前に進めなかったんだもん」と現在のトキコが答える。
母の衣装ケースに隠されていたもの。それは、一度も袖を通してない服だった。中には1着100万円もするコートも含まれていた。当時のトキコは察した。父の不倫に気づいていた母が、その寂しさを埋めるために、高価な衣類を密かに購入していたことを。
直視を避けてきた衣装ケースの中の秘密。そこに詰め込まれていた母の寂しさ。それを見つめ直すことを決めたトキコは、改めてノートパソコンに向かう。だが、執筆にブレーキがかかる。書いてしまうと不倫をしていた父親を許せなくなるかもしれない。母に沈黙を強いていた父を許せなくなるかもしれない。そう逡巡する現在のトキコに、20代のトキコが語りかける。
「許さなくてもいいよ。許せないまま書けばいい。怒りも、悲しみも、悔しさも。あのころの私にはどうすることもできなかった。だから、私のぶんまで書いてよ」
トキコは、箱の中に隠された母の謎に向き合い、母と出会い直した。あのころの自分にはどうすることもできなかった理不尽。その怒りや、悲しみや、悔しさ。それはかつてのトキコが抱え、記憶の底に沈めて蓋をしたものであるとともに、かつての母が抱え、押入れの箱に沈めて蓋をしたものだろう。トキコは母とともに、自身の中のそのような感情とも出会い直した。その出会い直しが、最終回に向け父との関係を組み直す契機となるはずだ。
さて、先週はもうひとつ、母が箱の中に残した謎をめぐる物語があった。
大豆田とわ子(松たか子)「解明も証明も定義もしなくていいのが、普通の会話です」
このドラマがどんなドラマだったのか。それを要約するのは難しい。15日に最終回を迎えたドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』(フジテレビ系)。最終回を見終えてもなお、3度結婚し3度離婚した大豆田とわ子(松たか子)と元夫たちの物語だった、とタイトルどおりの説明をするするほかないようにも思える。
もちろん、物語の中では友人の死や会社の買収騒ぎなど、ドラマチックな出来事がいくつか訪れた。建設会社の社長を務めるとわ子の周りを、何人かの人物が通り過ぎていった。元夫たちはそれぞれの出会いと別れを経験した。しかし、何か決定的なところが語られずにドラマ内では日々が続いた。衝撃的な出来事が決定的な影響をとわ子らに与えているのは確かなのだが、それが当人たちの口から明確に語られることはなかった。
だが、そんな物語が消化不良にならないのは、何より登場人物たちの軽妙な会話によるところが大きい。同じく松たか子が主演していた『カルテット』(TBS系)がそうだったように、脚本家・坂元裕二が描く人物たちが交わす会話は今作でも魅力的だ。そして、その魅力的な会話の中で、衝撃的な出来事は(少なくとも表面的には)角が取り除かれ、生活に馴染んでいく。私たちもまた、とわ子たちの会話を楽しみながら、語られないものを残しながらも前に進む物語にいつの間にか馴染んでいく。第8話、お見合いでの日常会話を練習する数学好きの小鳥遊大史(オダギリジョー)に、とわ子は説いていた。
「みんな自明のことを話してるんです。むしろ、解明も証明も定義もしなくていいのが、普通の会話です」
そう、みんな日々の会話の中では自明のことを話している。坂元が描く人物たちの会話は、例え話を多用するなどウィットに富んでいるため、なんだかすべての言葉に奥行きがあるように聞こえる。すべての言葉が物語の伏線のように聞こえる。しかし、日々の会話は本来、解明も証明も定義もしなくていい。そこに解かれるべき謎はない。謎がなければ答えもない。
だが、答えがなく延々と続けることができる会話とは違い、始まった物語は終わらなければならない。だからだろうか。物語が閉じる最終話は、これまで会話に参加していなかった人物の謎を知るところから始まった。その人物とは、とわ子が幼いころに父と離婚し、とわ子の社長就任の日に亡くなった母親だ。
自宅のWi-Fiの設定をし直すためマニュアルを探していたとわ子は、段ボールの箱の中から母が書いた手紙を見つける。「夫と娘の面倒を見るだけの人生なんて」という一文で書き終えられた手紙。それは投函されず残されたラブレターだった。とわ子とその娘は、便箋に記された恋人の住所を訪ねる。インターホンを押すと、出てきた恋人・國村真(風吹ジュン)は女性だった。
振り返ってみれば、第1話は母のメールのパスワードを解き明かすところから始まっていた。その秘密を解き明かす中で元夫たちはお互いに出会い、とわ子と新たな関係を結び始めていた。そして最終回。物語は母の謎を知ることで終焉に向かい始める。とわ子と娘との関係が組み直され、父との関係が組み直され、元夫たちとの関係が組み直された。物語を閉じる鍵となったのは、これまで会話の輪の中にいない母が残した謎だった。
とわ子とトキコ。1音違いの2人は世代も近い。いずれも独身で、いずれも経済的に自立した女性である。そんな2人は、亡くなった母が残した箱を開け、そこにある謎に向き合った。彼女たちの母が語れないのは、この世にいないからではない。この世にいても、語れなかったのだ。
日常会話の中に謎はない。生活を揺るがす出来事は、日々の会話の中で角が取り除かれ、生活に馴染まされていく。家庭の日常を維持するために、母が抱え持つ語れない何かは日々の会話の中でなだめられ、押し流されていく。押し流された何かは、箱の中に追いやられ、時間の中でいつしか謎になっていく。2人が向き合ったのは、そんな謎だったように思う。
とわ子は母が語らずに残した謎を解き、母が幸せに生きていたことを感じとったように見える。トキコの物語は、どのように閉じられるのだろうか。
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