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SMAPと「お別れ」ができなかった私たちへ──僧侶が仏教的視座で考える「卒業コンサート」の重要性

亡霊オタク、卒コンで成仏する

SMAPと「お別れ」ができなかった私たちへ──僧侶が仏教的視座で考える「卒業コンサート」の重要性の画像3
オタクはゴールが喪失したマラソンをいまだに走り続けている

 朝早くグッズ列に並ぶところから、儀式はもう始まっている。ステージに立つ推しが見られるのも今日で最後かと、覚悟を胸に席につく。ライブが始まれば我も忘れて盛り上がり、ラストMCではアホかというほど号泣して、興奮と寂しさのはざまで感情はグチャグチャ。最後にステージを降りていく推しの後ろ姿を心惜しく眺め、帰路へと向かう夜行バスの静寂の中で、やっとオタクは思えるのだ。

「終わった」と。推しは「引退した」のだと。

 こうした一連の儀式を経て、やっとの思いで、ほんのひとつまみだけでも「生きなきゃ」と思えるようになる。葬式がなければ心にわだかまりが残るように、最後のお別れがなければオタクだって成仏できない。もしも卒コンなしに納得ができるオタクがいたとしたならば、そのオタクはもはや悟りの境地にいると言っても過言ではない。ペンライトを振っている場合ではなく、木魚を叩くあの棒(バイと言う)を振ってほしい。

 アイドルオタクは、推しと出会ったときから別れが約束されている。だから、推すということは、二人が出会った最初の点から、最期の点に向かって走ることをいうのだろう。だとすれば、ラストコンサートを迎えられないまま、突然推しとお別れすることになったオタクは、ゴールが喪失したマラソンをいまだに走り続けている。“終わらせること”ができないまま、推しがいない現実をただ走っているのだ。

 たった数行の挨拶文だけで綺麗にバイバイできるならば、この世に僧侶なんて職業は存在しない。文明には必ずといっていいほど「弔い」の文化が存在する。最後にコンサートがあってほしかったと思うTさんの気持ちは、煩悩でもなんでもなく、「居なくなったことを受け止めたい」と思った人類の叡智そのものだ。だからこそ、その気持ちは否定されるようなものではないと僕は思う。

オタクの幸せは推しの幸せ、推しの幸せはオタクの幸せ

SMAPと「お別れ」ができなかった私たちへ──僧侶が仏教的視座で考える「卒業コンサート」の重要性の画像4

 居ないということを真正面から受け止めるのは、とても勇気がいる。例えば、その現実を受け入れることで、

「推しが消えてしまうかもしれない」
「自分は推しのことを忘れてしまうのかもしれない」

 そんな恐怖に直面することも考えられる。 推しと過ごした時間は大切な記憶のはず。それなのに、もう居ないことを確認するのが怖く、思い出があることすら逆に辛すぎて、まともに記憶の中の推しを直視できなくなる気持ちは、身に沁みて分かる。

 心の中で宙ぶらりんになっている推しをどのように受け止めればいいのか。どうすれば推しは永遠のままで居続けてくれるのだろうか。その答えはきっと、とても難しい。人類が有史以来、追い求めてきた命題である。

 今の自分には「こうすればいい」だなんて、都合の良い言葉は見つからない。推し方はそれぞれであるように、推しをどのように心にとどめるのかも、オタクによってそれぞれの形があるのだとも思う。

 だから、最後に、「答え」とまでは言えないのが申し訳ないが、 途中まで自分なりに歩み進めた「迷路」 のようなものをここに置いておこうと思う。

 仏教では「本当の存在は居なくなっても、居なくならない」と考える。この時点ですでに迷宮に入り込んでいる人がいるのかもしれない。でも、オタクならばすでにその境地に一度は足を踏み入れているのではないだろうか。

「大事なものは失って初めて気づく」何かを失ったとき、誰もがそのような気持ちになったことはないだろうか。つまり、僕らは何かを喪失したとき、たしかにその存在を物理的には失うことになるのだが、その存在の尊さに気づくことができる。たとえ居なくなったとしても、そこに“居た”ことさえ覚えていれば、存在を失ってできた心の“空白”が、何よりもその存在を感じさせてくれることを、僕らは知っているはずなのだ。

 反対に、たとえ存在していても「居るのが当たり前」と思っているとき、そのありがたさには気づけないこともある。はたして、それは本当に「存在している」と言えるのだろうか。

 仏教では、すべての存在は関係性によって成り立っていると説かれる(諸法無我)。つまり、簡単に言うと、仏教でいう存在とは、あなたが想う中にしか存在しない。物理的に存在する、しないという次元に存在の根拠を置かないのだ。

 居るのが当たり前だと思っているときには、存在は透明となり、居ることに尊さを感じているときには、存在は鮮明に現れる。仏教では、推しを想い、浮かんできたその一粒一粒が、推しなのだ。もしもあなたが寂しさを感じるならば、それはあなたが心に居座り続けた”誰か”を想えている証拠である。推しはあなたとともにあなたの中で生きている。

 勇気を出して居なくなった推しを想うとき、きっと嵐のような感情が吹き荒れるだろう。突然の別れで、伝えたかった気持ちも届けられないまま、そんな現実すら見るのも嫌で、ただただ塞ぎ込むしかできず、いっそ推しに出会ったことすら無かったことにしたい。こんな思いをするくらいなら推しに出会わなければよかった。浮かび上がる気持ちは、どれも殺傷力が高い。

 それでも、推すことは修行だ。そう言い聞かせて、推しが成長していく分だけ、オタクも高みを目指すほか、このゴールなきマラソンは終わらない。居なくなったことを受け止めることは推しへの最後のはなむけ。そう信じ、寂しさから逃げず、居なくなったことを見つめ、痛みを越えた先に、推しは必ずTさんの心の中にそっと生まれるはずだと、僕は信じている。

「さよなら。」僕を今日まで支え続けてくれたひと
「さよなら。」今でも誰よりたいせつだと想えるひと

そして

何より二人がここで共に過ごしたこの日々を
となりに居てくれたことを僕は忘れはしないだろう

「さよなら。」消えないように…
ずっと色褪せぬように…
「ありがとう。」

(SMAP『オレンジ』)

 原稿を書きながら、ずっと聴いていた曲である。これは分析でもなく、ただの祈りのようなものなのかもしれないが、この曲を聴くとなぜか、僕らオタクが推しの幸せを願っているように、推しもまたオタクに「幸せになってほしい」と願っているのだと思えた。最後が「さよなら。」ではなく「ありがとう。」なのは、居なくなっても居なくならないから、なのかもしれない。

 すべてのアイドルオタクに、幸せがありますように。

稲田ズイキ(僧侶)

1992年、京都久御山町の月仲山称名寺生まれで副住職。同志社大学卒業後、渋谷のデジタルエージェンシーに入社。現在は「煩悩クリエイター」を名乗って独立し、文筆業のかたわら、フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』の3代目編集長に就任するなど、時々家出をしながら多方面にわたり活動中。2020年には集英社から初の著書となる『世界が仏教であふれだす』を出版。

Twitter:@andymizuki

『世界が仏教であふれだす』 (集英社ノンフィクション)

いなだずいき

最終更新:2021/11/29 19:46
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