【格闘王・前田日明と「リングス」の曳航 Vol.2】マイナスからの船出、選手を探す航海へ
「中量級っていうのもアリかな」
リングスにはさまざまな功績がある。とりわけ最大のものは世界中の格闘技者に「居場所」と「出番」を与えたことだ。
国家の庇護を失った共産圏のスポーツエリート。飾り窓のバウンサー(用心棒)で糊口をしのぐしかない元不良少年やオリンピック級の選手。彼らに統一ルールで闘う職業とそれに見合う報酬をリングスは用意した。どれだけの選手が救われただろうか。
〈そのころのロシアは社会も経済も崩壊していた。みんな食うのに精一杯。ぼろぼろの状態だったんです。
銀行が開業したり、潰れたりすることもしょっちゅう。毎週のように頭取が殺されるような事件が起きていた。
今でも覚えていることがあります。1991年9月1日にロシアに行った。空港のエクスチェンジ(外貨両替窓口)でドルを替えたら、1ドル=3500ルーブル。それが1週間たったら、もう6000ルーブルぐらいになってるんです。
それどころか、モスクワ市内ではもうドルしか使えない。ルーブルの信用がなくなっているんです。そんな状況だった。
街にはいろいろな店が立ち並んでいました。ところが、売るべき品物がない。売り物はないのに、寒空の下、どの店も長蛇の列なんです。9月1日の夜、モスクワは0度をちょっと下回っていた。
そんな中、年金生活をしているお婆ちゃんたちが自分で編んだスカーフを手に持って売ったり。頬っぺたを真っ赤にした小学校5、6年の女の子が道端で募金箱を前にしてリコーダーを吹いたり。終戦直後の日本みたいな状況でした。街の中も騒然としていた。
空港に着いても、暗いんです。電球が切れているのに、直せもしない。天井も破れていたり。ロシア全体の国や街のムードに夜も昼も何とも言えん薄暗さがありました。〉
居場所と出番で救われたのは海外の選手だけではない。国内の「さまよえる格闘家」たちにもリングスは指針を示した。
西良典(元大道塾北斗旗空手道選手権王者、慧舟会創始者)、平直行(元シュートボクシング世界ホーク級1位、ブラジリアン柔術黒帯)、木村浩一郎(サブミッション・アーツ・レスリング出身)、岩下伸樹(元シュートボクシング世界ヘビー級王者)。参戦は実現しなかったが、川口健次(元修斗世界ライトヘビー級王者)や市原海樹(元大道塾北斗旗空手道選手権王者)らもリングスの動向に注目していた。
〈「来る者は拒まず」です。何でもよかった。最初はもう「ヘビー級、ヘビー級」っていう意識しかありませんでした。でも、リングスを何年かやっていくうちに、「中量級っていうのもアリかな」って思えてきた。
そのころはまだ正道会館勢もいました。後川聡之(元正道会館全日本選手権王者)君あたりが「総合格闘技をやりたい」と意欲を見せていた。で、平はマンガ『グラップラー刃牙』(板垣恵介作、秋田書店刊)の主人公のモデルで有名でした。彼も総合をやりたいっていう話だったんで。平と後川、二人をライバルとして競い合わせて、中量級のカテゴリーを作ろうと思ったんです。〉
1993年2月28日に開催された「後楽園実験リーグROUND1」は格闘技史に名を刻む大会である。
K-1やパンクラス、「アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ(UFC)」が相次いで産声を上げたこの年。これらに先駆けてリングスは新たな領域へと一足先に飛び込んだ。
「志向」と「思考」「試行」。前田とリングスにはこうした言葉がよく似合う。
〈何もかも手探りでやってました。本当に実験だったんです。言葉通り、そのままですよ。
実際やってみて、不備が出たら対処していく。現場主義の連続です。前もってルールや、いろいろな枠組みを作ってやったわけじゃない。生産のラインを走らせながら、第一番目のロットを市場に流す。そこから出て来るエラーのリポートを基にして生産しながら、少しずつ変えていく。そんな感じです。〉
リングスの活動が徐々に軌道に乗っていく一方、ファイター前田日明には大きな転機が訪れていた。2戦目となる地元・大阪での大会を目前に控え、深刻な怪我を負ったのだ。左膝前十字靭帯断裂、側副靭帯損傷、半月板損傷。格闘技者にとって致命的ともいえる深傷だった。
(Vol.3に続く)
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