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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 前田日明と「リングス」の曳航(2)
リングス旗揚げ30周年記念 短期集中連載『天涯の標』

【格闘王・前田日明と「リングス」の曳航 Vol.2】マイナスからの船出、選手を探す航海へ

写真=尾藤能暢

【「天涯の標」Vol.1はこちら】

新生UWFの蹉跌とその後の苦衷から抜け出し、ようやく立ち上がった前田日明。所属日本人選手わずか1人での1991年5月のリングス旗揚げは国内格闘技史上異例ともいえるものだった。

苦肉の策でつかみ取った「ネットワーク構想」。各種・各国の競技場をつなぐ場としての運動体。「リングス」は動き出した。プロフェッショナルとして報酬を保証しながら、総合格闘技の確立を目指す。一方でプロレスを見てきたファンに打撃や組技のリテラシーを啓発する。壮大な実験が続いていく。

いまや、その成果の一端をプロ格闘技の隆盛という形で多くの選手や関係者、ファンが享受している――。

居場所と出番

 前田日明は走り出した。ゼロではない。マイナスからの出立。前田には足を踏み入れるべきリングすらなかった。

  〈リングの調達から始めました。UWF道場にあったリングを持ってこようと思ったら、インター(UWFインターナショナル)が横取りしていた。

 UWF道場は第一自動車の寺島(幸男)社長が好意で貸してくれていました。寺島社長は中立だと思ったら、向こうの肩を妙に持ってる。いつの間にか俺が悪者になってるみたいで。なぜかはわからないんですけど。

 リングスの経理担当役員になる相羽(芳樹)さんはもともと美空ひばり事務所の経理主任をしていた。彼の人脈の中に舞台の大道具をいろいろ作っていた業者さんがいたんです。その人のところに行って、「こういうリングを作れませんか?」って持ちかけた。いろいろ話を聞かれて、「まあ、何とか作ればできる」って引き受けていただいた。

 寸法がわからないんで、UWF道場に測りに行ったりしました。〉

 UWFが解散し、前田が新団体を立ち上げた1991年。世界史、日本史の上でも特筆される転換点である。湾岸戦争が勃発し、ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊、バブル経済が終焉を迎えた。特にソ連の瓦解は前田の行く手に大きな影響を及ぼすことになる。

 新団体の名称は「リングス」に決まった。分裂で誕生した他の2団体は「UWFインターナショナル」「新UWF・藤原組(後に「プロフェッショナルレスリング藤原組」に改称)」といずれもUWFの後継を標榜する。前田はこの3文字を封印した。リングスの名にはすでに歩むべき道程が暗示されている。

 〈いろいろな競技場から選手がやってくる。競技場はリングだろうと。それが集まってきて、複数形でリングスです。

 リングは「輪」にもつながる。日本的でもあるし、いいんじゃないかということで決めました。

 リングスのマークは「人種」を表しています。白人、黒人、黄色人種。いろいろな人種が世界中から集まってきて闘う。

 当時、コンピューターの専門誌を見ていると、「ネットワーク」って言葉が出てきました。そこから、単純に「ファイティングネットワーク」でどうかと。

 どっちみち所属する日本人は俺一人。外から選手を引っ張るしかなかった。だから、「ネットワーク」っていう理念を前面に打ち出した。「どんな奴が来るのかわからない」ってコンセプトでやることにしたんです。〉

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