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日刊サイゾー トップ > インタビュー  > 前田日明と「リングス」の曳航(1)
リングス旗揚げ30周年記念 短期集中連載『天涯の標』

【格闘王・前田日明と「リングス」の曳航 Vol.1】UWF解散、引退説、そして新団体へ

写真=尾藤能暢

 東京ドームで6月13日、格闘技イベント「RIZIN.28」が開催される。同大会のエース的存在である朝倉未来、海の兄弟を見出したのがプロモーター・前田日明だ。

 2020年からは自らのYouTubeチャンネルを通じ、朝倉兄弟や石井慧、所英男、宮田和幸、久保優太、安保瑠輝也、纐纈卓真、佐藤嘉洋ら名だたる格闘家と精力的に交流。叱咤激励の傍ら、時に進路を左右しかねない助言もしてきた。

 いまだ「現役」である前田は「総合格闘技」の確立に尽力した功労者の一人。揺籃期から選手、オーガナイザーとして斯界に関わってきた。その基盤となったのが運動体「リングス」である。

 プロレスから格闘技へと移行を図る時期、世界中のネットワークから集めた選手をプロフェッショナルとして統一ルールの下、一つのリングで闘わせる。徹頭徹尾リアリティーを追求しながら、どこかファンタジックでさえある。国内はもちろん、オランダやロシア、グルジア(現ジョージア)などの同志と気脈を通じ、前田は誰も見たことのない世界を現出せしめた。

 そんなリングスは1991年に発足し、2002年に活動を停止。今年は旗揚げから30年、来年で終焉から20年と、2年越しで節目を迎える。前田がロングインタビューに応じた。この1年余り断続的に続けてきた取材の成果も加味しつつ、唯一無二の組織とファイター、プロモーターの航跡を辿る――。

喪失と欠落

 比類なき運動体が1991年に産声を上げてから30年が経過した。ファイティングネットワーク・リングス。その栄光と敗走の思い出を胸に抱く者は幸いである。

 リングスは今年5月、人間であれば「而立」の年を迎えた。立役者の総帥・前田日明は発足当時を振り返り述懐する。
 
 〈何もわかんなかったですね。どうなっていくやも。雲をつかむような話だったんで。過去に前例がないじゃないですか。そんなこと、やった人もいないし。〉

喪失と欠落。新格闘王の称号を託される男の旅立ちにはいつもその二つがあった。

 1977年、18歳で飛び込んだ新日本プロレス。前年、社長でエースのアントニオ猪木はプロボクシング世界ヘビー級王者モハメッド・アリと異種格闘技戦を闘っていた。

「うちはアリのジムとも提携している。米国でヘビー級のプロボクサーを目指さないか」

 スカウトの折、新日プロ営業本部長・新間寿から確かに囁かれた売り言葉。入門後、厳しい練習や付け人の雑務に追われる中、いつの間にか雲散霧消していった。

 身長192センチという恵まれた体軀。1982年には英国遠征へと旅立つ。差配をしたのは、前田の師となる「プロレスの神様」カール・ゴッチだった。

 米国や日本と違い、「ガス灯時代のプロレス」が息づいている。前田の遠征先に英国が選ばれた理由である。だが、それは幻想だった。英米両国は同じアングロサクソン系の文化を持つ。米国のショーアップされたプロレスの影響はすでに北大西洋で隔てられた島国にも及んでいた。

 翌年には早くも凱旋帰国。猪木と新間が手掛けた一大イベント「インターナショナルレスリンググランプリ(IWGP)」決勝リーグに欧州代表として出場するためだ。「現地で修業を続けたい」との希望は叶わなかった。前田は帰国後、直ちにメインイベンターとしての扱いを受ける。

 1983年は新日プロにとって転機の年である。猪木がブラジルで展開した事業「アントンハイセル」に資金が流入しているのではないか──。そんな疑念が選手やフロントの間に広がっていった。やがて企てられたクーデターにより社長である猪木と副社長・坂口征二は降格を余儀なくされ、新間は放逐の憂き目に遭う。

 翌1984年、新間は「ユニバーサルプロレス」を設立した。2月29日の合同練習を最後に前田は新日を離脱。新団体にエースとして参画する。

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