「延暦寺焼き討ちの織田信長は無心論者」はウソ! 中世の僧侶が導いた“神仏冒涜”正当化の驚愕ロジック
#歴史 #織田信長 #延暦寺 #信仰
キリシタン大名・大村純忠は真言密教にも傾倒
――世間的には「キリシタン大名」として知られる大村純忠が、洗礼を受けた後も真言密教や観音信仰・伊勢信仰に傾倒していたほか、キリスト教改宗後も従来の信仰とのつながりを保っていた人たちの例があり、キリスト教と仏教などとの兼宗は一般的だったという指摘も面白かったです。
稙田 大村らがキリシタンになって以降も、これまでの習俗と決別していなかったと指摘している研究者は多いですね。そもそもイエズス会が現地の習俗に合わせて布教する戦略を採って当初「デウス」(神を意味するラテン語)を「大日」(大日如来)などと訳していたがために、キリスト教も仏教の一派として受容されたとする研究者もいますから、大村のような例も決して特異ではないのかなと。今の日本人もそうだと思うんですけれども、中世においても「武運に対してはこの神」「長寿に対してはこっち」といった信仰を兼ねる態度が見られます。ですから、キリスト教もいくつかある中のひとつとしてほかの神仏と矛盾なく受け入れていた可能性はあります。
――純忠が寺社焼き討ちや偶像破壊をする際に、「自分を裏切った神仏や力のない神仏は唾棄していい」という中世日本でよく使われる焼き討ち正当化の方便を用いていたという指摘もありました。これなども通俗的な「キリシタン大名」観とは随分と違う姿に感じました。
稙田 仏教徒からキリシタンに変わったからといって、それまでの一切の信仰がなくなって神罰・仏罰の恐怖が消えたわけではなく、おそらくなんらかの心の痛みはあったはずですし。だからこそ、それを克服する方便(理由づけ)が求められたのだと思います。
――キリシタンといえば、「隠れキリシタン」という言葉があるくらい「信仰秘匿」のイメージと分かちがたく結びついています。しかし、信仰秘匿問題についてはキリスト教が伝わる以前、日蓮宗や禅宗弾圧の頃からあり、その理屈や態度がキリシタンにも継承されていたし、弾圧する側もその頃から「表向きは信じていないと言えば許してやるから、言ってくれ」という本音と建て前の使い分けをしていたとの指摘も興味深かったです。
稙田 外見上「信仰を棄てました」と言って周囲の人々からどう見られようとも、心の中で信仰心を残しておけばいいと信徒に伝えている日蓮宗の史料などがあります。おそらく、それが結果的に弾圧を免れる際の手段にもなったということではないかな、と。そうした信仰秘匿は広く中世の人たちの宗教とのかかわり方を表しているもので、それがキリシタンにもつながったのではないでしょうか。
――最後に、稙田さんの今後の研究展望を教えてください。
稙田 これまで歴史学ではどうしても人間を中心に歴史を書いていましたが、自然や神仏を含めて人間中心主義ではない歴史をもっと模索していく――人間も神仏も動植物も含めたトータルの歴史が描けないだろうかと考えています。ただ、これは非常に難しい。自分が生きている間にどこまでできるかわからない。しかし、近年では中世に限っても、例えば動植物と人間とのかかわりについての研究も出てきています。そういったことを「動物と人間」「神仏と人間」といった枠組みをも超えて、同じ世界に共生したものたちの歴史としてひっくるめて描ければなと。歴史は人間の動態を描くものですが、人間だけでやってきたわけではないですから。
稙田誠(わさだ・まこと)
1980年、大分県生まれ。2003年、別府大学文学部史学科(現在は史学・文化財学科)卒業。18年より佐藤義美記念館に勤務(学芸員)。専攻は中世宗教史・思想史。とりわけ神仏と中世人の関係性や心性の解明に力を入れている。
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