五輪金メダル獲得前に柔道界の“レジェンド”になっていた古賀稔彦さん
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バルセロナオリンピック・柔道男子71キロ級の金メダリスト・古賀稔彦さんが24日朝、53歳で亡くなったことを、各メディアが報じた。同日、夕方の時点で死因は判明していないが、近年、がんのため闘病していたという。
「日本の柔道界で五輪金メダリストは数多いが、古賀さんは、引退までに203連勝を達成して国民栄誉賞を受賞した、現日本オリンピック委員会(JOC)の会長の山下泰裕会長らと並ぶ数少ない柔道界の〝レジェンド〟の1人。すでに五輪の前年には“レジェンド”として扱われたことでも知られています」(柔道関係者)
柔道の名門・世田谷学園時代から得意の一本背負いで一本勝ちを量産し、いつしか「平成の三四郎」と呼ばれるようになっていた。ただ、大きな挫折も味わっている。
「1987年の世界選手権は銅メダルながら、五輪初出場となった88年のソウルで金メダルの期待がかけられていた。ところが、長身で手足の長いロシア圏の選手の変則組み手で一本背負いを完封されメダルにすら手が届きませんでした」(スポーツ紙の元五輪担当記者)
しかし、その敗戦から立ち直り、バルセロナでリベンジを期すべく勝利を重ねた1990年の春、大きな決断を下した。
「勢いに乗る前年度の王者・小川直也さん、各地区を勝ち抜いた100キロ超えの猛者らがひしめく体重無差別で開催される『全日本選手権』への出場を宣言。最軽量で同選手権で優勝した岡野功さん、関根忍さんはいずれも80キロ級(当時の階級分け)の選手。高校時代から重量級の相手をバンバン投げ飛ばしていた古賀さんでしたが、当時75キロほどしかなく、あまりにも無謀な挑戦でした。無論、ケガのリスクもありました」(当時の柔道担当記者)
当時、全日本選手権は毎年4月29日に日本武道館で開催。古賀さんはその3週間前の同8日、体重別選手権の「講道館杯」で3連覇を達成し弾みを付けると、武道館内のすべての人々をクギ付けにしたのだ。
「初戦の2回戦では135キロ、3回戦では125キロ、そして準々決勝では155キロ、準決勝では108キロの相手を持ち前のスピードで翻弄。小川との決勝に進出したのです。無傷の小川さんに対し、古賀さんは4試合すべてフルタイムの判定勝ち。小川さんに一本負けし史上最軽量優勝は逃しましたが、金メダルを前に柔道界の“レジェンド”になった瞬間でした」(同)
古賀さんの活躍から24年後の2014年、2年後の16年のリオ五輪73キロ級で金メダルを獲得した大野将平選手が全日本選手権に挑戦するも、3回戦で優勝した100キロ超級の王子谷剛志に敗退。しかし、王子谷が一本勝ちできなかったのは大野選手だけだった。
現時点で開催が予定されている東京五輪で連覇の期待がかかる大野選手だが、現在ならば古賀さんが五輪で金メダルを獲得したのと同じ階級区分。五輪連覇の暁には、再び全日本に挑んで古賀さんに負けない活躍をみせてほしい。
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