『花束みたいな恋をした』恋愛悲喜劇の名手・坂元裕二が描く“根っこ”がない恋の顛末
#映画 #有村架純 #菅田将暉 #坂元裕二 #花束みたいな恋をした
──サブカルを中心に社会問題までを幅広く分析するライター・稲田豊史が、映画、小説、マンガ、アニメなどフィクションをテキストに、超絶難解な乙女心を分析。(月刊サイゾー3月号より転載)
20代の頃、仕事で知り合った50代の男性に「同じ映画が好きとか同じ作家を好むとかね、そういうのは夫婦に必要ないよ」と言われた。彼は一流私大卒業後に入社した全国紙の新聞社を40代で辞め、当時気鋭のエンタメ企業に役員待遇で収まった、文化系インテリ。思春期の息子を残して妻と離婚後、20歳近く年下の女性と再婚したばかりだった。なお、再婚相手の趣味は「買い物」である。
当時の筆者は、“同じ文化系男子”として彼を軽蔑した。堕落も堕落、ああはなりたくないものだと。しかし40代になった今なら、100%同意だ。「趣味趣向が同じ」を根拠にくっついた男女は、最初こそ華やかな幸福感に包まれるが、遠からず破綻する。花屋の店頭では華やかだが、根っこがないため長持ちしない「花束」のように。
映画『花束みたいな恋をした』には、タイトルからしてそんな悪意がある。脚本は『東京ラブストーリー』(91)で名を馳せ、近年は『最高の離婚』(13)『カルテット』(17)で男女の性差が引き起こす悲喜劇に定評のある坂元裕二。サブカルまみれな20代文化系カップルの破綻劇を、これ以上なくサディスティックに描いたラブストーリーだ。
主人公は、イラストレーター志望でガスタンク写真を撮るのが趣味の大学生・麦(菅田将暉)と、女子大生の食べ歩きラーメンブログを日々更新する絹(有村架純)。2人は偶然出会い、趣味や価値観の圧倒的な一致に驚いて、すぐに意気投合。互いのカルチャーセンスとワードセンスを絶賛しあい、歓喜の中で交際を開始する。
2人は天竺鼠のお笑いを好み、菊地成孔のラジオ番組を愛聴し、穂村弘や長嶋有や今村夏子を愛読し、早稲田松竹や下高井戸シネマに通い、きのこ帝国の「クロノスタシス」をカラオケで歌う。そういうカップルだ。
しかし絹が就活に失敗して同棲をスタートし、麦が仕送りを止められたあたりから、暗雲が立ち込め始める。絹は歯科医院の受付に、麦は物流会社の営業職に就職。麦は仕事に専心せざるを得なくなり、ビジネス啓発書に傾倒。かつて研ぎ澄まされていた文化的感受性は見るも無残に鈍り、以前と変わらずコンテンツ摂取に励む絹に、どうしようもなく苛立つのだ。
社会人になり、毎日が(たいしてクリエイティブでもない)仕事の物量で埋め尽くされた結果、学生時代あれほど大事にしていた文化系マインドや尖ったサブカルスピリットが消え失せていくのは、さして珍しい話ではない。
それでなくとも、人の嗜好は生活環境の変化によってめくるめく変化するものだ。税金を払う立場になった途端に思想が180度転向したり、うっかり会社を辞めて取り返しがつかないと悟ってから、かつて崇拝していたサロン主に恨み言を吐いたりするのと同じ。人は、「ずっと同じコンテンツを好き」ではいられない。だから、一生一緒にいることを前提とした伴侶を、「同じコンテンツが好きだから」で選んではいけない。コンテンツ趣味の一致ほど、先行き不確実なものはないからだ。
「コンテンツ趣味が一致しているから」という理由で付き合った男女は、それが一致しなくなった瞬間、破綻する。それは、男の高年収目当てで結婚した女が「夫の年収が下がった」という理由で離婚を決意したり、女の若く美しい体目当てで結婚した男が、「妻が加齢で劣化した」という理由で浮気に走ったりするのと、大差ない。
ただ、若い時分はどうしても、趣味の一致程度で「運命の相手」だと思いこんでしまう。その一致は永遠だと錯覚してしまう。ソウルメイトである自分たちのどちらかが、この素晴らしきセンスを失い、変わってしまうだなんて、想像もつかない。この先もずっと、天竺鼠と菊地成孔と穂村弘と長嶋有と今村夏子を好きであり続け、いくつになっても早稲田松竹や下高井戸シネマに通い、「クロノスタシス」を熱唱するのだと、信じて疑わないのだ。
しかし、そんなわけはない。
だから、我らが文化系中年にできるのは、「20歳で好きなコンテンツと35歳で好きなコンテンツは、お前らの想像以上に違う」ということを、経験に基づいた訳知り顔のオッサン目線で、若人たちに伝えることだけなのだ。
しかも趣味趣向の体温差は、結婚というフェイズに差し掛かった途端、互いの結婚観のギャップという形で、無視できない存在になってしまう。
2人の関係が完全に冷え切った物語終盤、麦は「別れたくないから、結婚したい」と言う。しかし絹は「うまくいってないから、結婚できない」として、真っ向対立する。なぜだろうか?
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