『青天を衝け』渋沢栄一もサジを投げた江戸幕府の深刻な財政難と“徳川埋蔵金”のゆくえ
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埋蔵金は本当にあるのかも!? と夢を抱いてしまうが…
では、本当に埋蔵金が!?と、いきり立つのは早いです。
家康の遺産の詳細を記した帳簿「久能御蔵金銀請取帳」によると、「金九四万両、銀四万九五三〇貫目、銀銭五五〇両で、金換算では実に二〇〇万両(村上隆『金・銀・銅の日本史』)とあります。当時の1両の相場は高く、「二〇〇万両」=2000億円以上でしょうか。
しかし、ここからわかるように、江戸時代初期の家康の死の時点で「360万両」も「ない」のでした。
そして、その200万両も、家康の孫にあたる徳川家光の時代には使い果たされたことが確実なのでした。簡単にいうと100万両は、すでに財政難の御三家に分配され、残りの100万両は「おじいちゃん(=家康)大好きっ子」すぎた家光の手で、日光東照宮……つまり、家康公を顕彰する目的の霊廟建築の建造費に費やされ、差し引きゼロ(かそれ以下)になってしまったのです。
おまけに家光は父・秀忠時代に建築された江戸城の天守閣を、より高く、より豪華に作り変えていますから(しかし完成後、わずか4年で焼失)。これは単なる浪費というより、世間に「幕府の権力基盤は盤石だ! 戦国時代に逆戻りなどはしないぞ!」という意思表明が目的だったと思われます。昔ならば戦に費やしていた、あるいは貯蓄していた大金を、豪華な建築「なんか」に費やしてしまうことで、世間に強く「平和」をアピールしたかったのだと思いますが……いかんせん、使い込みすぎました。
実は、晩年の徳川家康の個人資産が200万両=2000億円まで膨れ上がったのも、豊臣家の資金源だった各地の金山・銀山を手中に納めることができたからです。いわゆる「久能御蔵金銀請取帳」に記される徳川家康の資産が一気に増えたのは、彼が征夷大将軍の職から退いた最晩年10年の間とのこと(いわゆる「大御所時代」)。とくに豊臣家を滅亡させた1615年以降、一気に、という感じではなかったかと想像されます。
しかし、その頼みの金山も江戸時代初期には早くも枯渇してしまったので、和製ゴールドラッシュの夢は儚く消えました。「金ならジャブジャブ、湯水の如くに使っても大丈夫!」という状態ではなくなり、その後はジリ貧一方なのが将軍家の懐事情だったわけです。
将軍家がダメなら、末端の各藩の財政はもっとダメで、武士社会全体が、貯蓄を増やすことなどできなかったでしょうねぇ。それこそ渋沢栄一みたいに「商い」を武士もやろう!と思えればよかったのでしょうが、武士はあくまで自分では稼ごうとしなかったのです。ここらへんの価値観のシフトができなかったがゆえに、江戸幕府は260年あまりで滅亡せざるをえなかったのです。
徳川埋蔵金にお話を戻すと、その存在自体が大きな夢。「あればいいなぁ」という願いが生んだシロモノであろう、と筆者は考えています。
そもそも、それだけ大金が残っているなら、徳川幕府が新政府軍に負けたりなんかするはずがないでしょう……。戦は資金力ですから。
まとめれば、徳川埋蔵金ともいうべきものは「実際にはあったけど、江戸末には消えてなくなっていたシロモノ」。ですから、「小栗が赤城山に運ばせた荷物って一体、ホントはなんだった?」というミステリーだけが残ったのでした。ちなみに小栗忠順、主君の顔色などまったくうかがわずに発言する、本物の「諍臣(そうしん)」です。『青天を衝け』にも登場すると思いますので、どういう描かれ方をするのか、楽しみに見守りたいと思います!
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