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日刊サイゾー トップ  > 『青天を衝け』と徳川埋蔵金の行方

『青天を衝け』渋沢栄一もサジを投げた江戸幕府の深刻な財政難と“徳川埋蔵金”のゆくえ

──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

『青天を衝け』渋沢栄一もサジを投げた江戸幕府の深刻な財政難と徳川埋蔵金のゆくえの画像1
『青天を衝け』公式HPより

 華々しく始まった『青天を衝け』ですが、視聴率が早くもジリ貧気味とのこと……。「江戸幕府の財政と同じだね」みたいなことを感じたので、今回はその手のお金の話をしてみようかと思います。あの「徳川埋蔵金」についても触れますので、お楽しみに。

 第2回「栄一、踊る」の放送で、態度の悪いお代官たちが渋沢家を訪れていたシーンを読者は覚えておられるでしょうか。500両の大金を「御用金」として納めるように……とのことでした(幕末の1両=米換算で現在の5万円以下)。

「御用金」とはふだんの年貢にプラスして、農民(など)に課されるお金でした。名目上は、武士が庶民から借りたお金なので、本来ならば利子をつけて返さねばならないのです。しかし、出した側に戻ってこないのが普通でした。各藩の財政は、幕末ともなると赤字が常態化しており、様々なところに借金して、なんとかしのいでいるという恥ずかしい状態だったのです。

 各藩がそういうことなので、幕府の状態も似たりよったりでした。経費は増える一方なのに、武士の収入ときたら、農民によって収穫されたコメをベースにしているので、当時の技術でコメの品種改良しようが、水田のための埋立地を作ろうが、大幅な増収はほぼ望めないのです。

 ……というわけで、各藩そして徳川将軍家の金蔵は(それこそドラマで描かれたごとく、稼げている庶民に金をせびりにいかねばならないほど)カラッポだったということになります。

 そう聞くと「徳川埋蔵金」の存在を思い出してしまう方もおられるのでは? 1990年代の日本では徳川埋蔵金がブームといってもよい状態。年に何本もテレビ特番が作られていたので、なんとなく覚えている読者も多いかもしれませんね。

 実際、幕末の江戸城から金塊が、勘定奉行だった小栗上野介(おぐり・こうずけのすけ)こと小栗忠順(おぐり・ただまさ)らの手で運び出され、小栗ゆかりの赤城山(群馬県)のどこかに埋められた……という都市伝説は今なお生き続けているようです。

 たしかに、江戸城開城の約1年前、現在の渋川市赤城町の人々が、大きな荷物を赤城山のほうに運んでいく武士と人夫たちの姿を目撃したというし、そういう人たちの生き残りが20世紀なかばまで存命していたのは事実のようです。が、実際、彼らが何を運んでいたかはよくわかっていません。

 もともと「(埋蔵)金がない!」と騒ぎ出したのは、いわゆる明治新政府のお役人たちなんですね。開城された江戸城の倉庫に金がまったく残っていないので、「どういうことだ!」「徳川家康が溜め込んだ金が残っているはずなのに!」と彼らは疑いました。

 後に小栗忠順は処刑されているので、「小栗がどこかに隠したに違いない」という疑念がこのときに生まれ、今なお、くすぶり続けているわけなのです。

 一説に埋蔵金の総額は「360万両(一説に4000億円弱)」などといいますね。これについてズバリお答えすると、たしかに徳川家康は人類史上でも稀といわれるほど、巨額の遺産をのこしました。そして、その帳簿も実在しているのです。

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