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「ソドム」は同性愛によって滅びたのではなかった──同性愛者はなぜ救われない? キリスト教の男性優位主義

カトリックでは司祭は男性のみ

『「レズビアン」という生き方 キリスト教の異性愛主義を問う』(新教出版社)の著書がある堀江有里氏は、レズビアンであることを公表している牧師であり、「信仰とセクシュアリティを考えるキリスト者の会」を仲間たちと立ち上げ、相談業務に従事してきた。堀江氏は、平良氏の牧師試験受験に際して、同性愛者であることを理由にこれを認めようとしない牧師が現れたときには、すでに自身は同性愛者であることを公表していたこともあり、これを差別発言として問題提起してきた。その堀江氏は、現在牧師としては教会を受け持たず、大学講師の仕事を中心に働いており、やはりキリスト教会において男性のほうが優位にあることを感じさせられているという。堀江氏が言う。

「今もカトリックでは女性は司祭になれず、プロテスタントにおいても女性が牧師になれない教派はまだまだ残っています。キリスト教会では上に立つ者は男でなければならないという規範はいまだに強く、女性の牧師に来られるよりはゲイの牧師のほうがいい、などと言われることもあるくらいです。キリスト教のその男性優位の考えというのは、一般社会よりもさらに強いですね。それはイエスの12人の弟子が男であったと聖書に書かれていることも関係しているのでしょうが、男がリーダーであるべきという規範の非常に強い集団であることは、中にいてもひしひしと感じます」

 もっとも、聖書をフェミニズムの視点から読み解く「フェミニスト神学」の観点からは、イエスはむしろ当時は家畜と同じように扱われていた女性を、男性と対等の人間として扱っていたことが読み取れるという。それがどうして、後世のキリスト教会では男性優位が主流になってしまったのだろうか。

「特にキリスト教がローマ帝国の国教になったときに、国家を管理する精神的な支柱にしなければならないという関係から、男性中心の統率力を志向するようになっていったのだといわれています。同性愛が異常とされるようになったのは、男性中心のキリスト教の異性愛主義と、同性愛を病理としてとらえた精神医学の影響が大きいですね。ただ、キリスト教が常に女性を男性の下に置いていたかというと、日本に今ある多くの私立女子校のように、女子教育においてキリスト教の学校が自立した女性を育成しようとしてきた歴史もありますから、一概にキリスト教は男性優位ばかりの宗教だとは言えないところもあります」

 もっとも、堀江氏は、イエスはもともと弱者のために社会を変革しようとした人だと考えていることから、自分がレズビアンであることがキリスト教において否定されていると感じたことはないという。

「私はキリスト教徒になってから自分がレズビアンであることに気づきましたが、社会の弱い立場、社会の周辺にいる人たちを大事にするのがキリスト教だと教えられました。ですからキリスト教徒であることと同性愛者であることの矛盾にはそこまで苦しまなかったのです。ただ、周囲を見てみると、牧師に同性愛者であることを告白したら、それは罪だと言われたとか、治療すべきだと病院に連れていかれたなど、教会に理解してもらえずに苦しんでいる人が多いと感じていましたね」

 リベラルな地域を中心に、現在ではLGBTの存在が市民権を得ていると思われがちなアメリカでも、保守的なキリスト教徒は今なお数多く存在し、同性婚などに反対の声があがり続けていることは、もはや言うまでもないだろう。

新しい時代と共に変わる宗教

 もうひとり、ゲイであることを公言している牧師が、平良氏、堀江氏と同じ教派である日本基督教団に所属し、同い年でもある中村吉基氏である。中村氏は「宗教とLGBTネットワーク」の代表を務め、仏教とも連携しながら、LGBTやHIVの感染者など、従来排除されがちだったマイノリティの信徒の救済に力を注いでいる。中村氏が言う。

「私は自分が同性愛者であることに気づいてから神学校に入ったので、どうしてキリスト教を捨てなかったのか、とよく聞かれるのですが、同性愛について、罪とかダメだと言っているのはあくまでキリスト教で、イエス・キリスト自身は何も言っていないと、聖書を読んでもそう思えるのです。むしろイエスの精神性から見て、あなたは同性愛者であるから救われないとか、異性愛者だから救われるといった線引きはしないだろうと、私は確信しています。弱い立場の人たちに寄り添ったイエスの精神に基づいて21世紀の今、牧師として務めるのであれば、同性愛者も異性愛者も同じようにキリストが受け入れてくれると考えるのは、むしろ当然ではないでしょうか」

 中村氏の訳書『いのちの水』(新教出版社)は、トム・ハーパーという神学者が書いたたとえ話で、巡礼者を癒していた泉の周りに教会堂が建てられ、さまざまな規則や、管理者の意見の違いが生じ、やがて本当に救いを求める人にも泉の在処がわからなくなってしまったという話だ。これは言うまでもなく、宗教が巨大化し、権威を持つに連れ、本来の教えから遠いものになってしまったことを表しているのだと解説する。中村氏は言う。

「キリスト教は、人間がどのように性欲に向き合うかということを、常に考えてきた宗教でもあります。プロテスタントは既婚でも牧師になれますが、カトリックの司祭は独身制で、いまだに男性しかなれません。いわゆる修道女(シスター)は、あくまで信徒の職制です。そのような男性優位な考え方の中で、同性愛についても、聖書の言葉を後世の立場から解釈して、これを禁じているとした考えが、長く基本とされてきました。しかし、現代の社会規範の中で考えるならば、キリスト教の教義はこれを罪だとしているといって、同性愛者を傷つけるようなことは、イエスが本来望んだキリスト教の形ではないことは、確かだと思えます」

 もっとも、マイノリティのはずのゲイは、男性であるという意味においてはLGBTというマイノリティの中のマジョリティであり、レズビアンなどほかの性的少数者よりは強い立場にあることは、当事者でもなかなか気づかないことがあると、中村氏も指摘する。キリスト教が男性優位の宗教として機能してきたことはこれまでにも見た通りだが、性的マイノリティの中にも男性優位の現実が潜んでいることを自覚するのもキリスト教徒としては大事なことだと、平良氏と同様、中村氏も考えているのである。

「時々私の教会にも、キリスト教をはじめとした信仰を持っている同性愛者の方から、『私のような者が信仰していてもいいのでしょうか』という相談の電話がかかってきます。そのようなとき、私は『もちろんです』とお答えするのですが、これからは宗教団体も、性的マイノリティをはじめとして、さまざまな社会の周辺にいる人たちに目を向けることが、絶対に必要になってくると考えています」

 前出の平良氏は、同性愛者であると同時にキリスト教徒である自分自身について青年時代に悩んだ末、同性愛を否定しているのは教会であって神ではないと思えるようになったという。平良氏は言う。

「僕はキリスト教は、絶えず変わっていくもの、時代に合わせて常に軌道修正していくものだと考えています。つまり神が人間に気づかせようとしているものはなんだろうと問うてくる宗教なのです。同時に、キリスト教徒は、歴史上キリスト教が犯してきた魔女狩りや植民地支配などの数々の過ちも背負っていかないといけない。その過ちを背負うことも含めて私はキリスト教徒なのであり、同性愛を罪として否定してきた歴史からも、決して目をそらしてはいけないのだと考えているのです」

 同性愛を否定すると同時に、男性優位の考え方もいまだにキリスト教の中に含まれているならば、それを乗り越えることも、21世紀のキリスト教の課題として残されているのかもしれない。

里中高志(ジャーナリスト)

フリージャーナリスト。精神保健福祉士。メンタルヘルスと宗教を得意分野とする。著書に『栗本薫と中島梓 世界最長の物語を書いた人』(早川書房)、『精神障害者枠で働く』(中央法規出版)、『触法精神障害者 医療観察法をめぐって』(中央公論新社)。

最終更新:2021/03/08 08:00
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