“特権”に気付いてゲタを脱げるか?「生きづらさ」解体から批判まで…「男性学」ブックガイド
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「モテない」苦しさを語り合って回復する
スマートに理論的に、時に冗談も交えつつ語る──そんな“男性的”な語りから距離を置いた当事者研究も生まれてきている。『モテないけど生きてます』(ぼくらの非モテ研究会/青弓社)は、男性のための語り合いのグループ「ぼくらの非モテ研究会」(以下、非モテ研)の常連メンバーが自身の体験を「当事者発表」としてつづっている。メンバーの多くは学生や会社員であり、拙い文章も多い。だが、それが非モテ研にあっては最適解であることが本を通して示される。「うねうね語り」と彼らが呼ぶ、とりとめのない話し方や率直な文章こそが自身の感情を取り戻すために必要なのだ。
グループ名こそ「非モテ」を冠しているが、メンバーは自分の経験を語るうちに、自身を悩ませているのがモテないことではなく自分の抱える「生きづらさ」だと気づいていく。
ある男性は、大学院に進学しても研究に行き詰まり、就職活動も実を結ばず、恋人がいないことを、ずっと「つらいと言いたかった」と振り返る。
「非モテ意識に苦しめられながらも、僕は、モテるようになればこの苦しみがすべて解消されるとはとても思えなかった。モテたいという気持ち以上に、誰にも話せないこのつらさを話したいという気持ちのほうが大きかった」(同書より)
非モテ研では、ロールプレイを取り入れることがあるという。前出の男性はそこで女性役を演じたことで「予期していないところで好意を向けられるのは本当に恐ろしい」と気づき、また別の男性は過去のパワハラ被害を再現してみたことで当時の悪夢を見る回数が減っていったと語っている。自分の感情を言語化し聞いてもらうことで回復しようとする非モテ研の在り方は、「弱音を吐くな」と抑圧されてきた男性たちを救うひとつの回答を示しているのではないだろうか。
「生きづらさ」にばかり目を向けていていいのか?
20年11月3日、NHKの朝のニュース番組『おはよう日本』で「有毒な男らしさ」という言葉が取り上げられた。「男らしく振る舞うべき」という抑圧とその内面化が英語圏では「Toxic Masculinity」と呼ばれるようになり、日本でも「有害な男らしさ」と訳されて広まりつつある。ただし、そうした抑圧による「生きづらさ」にばかり焦点を当て、その解放を促す「だけ」の主張には懐疑的な見方も存在する。
ジェンダー学者の平山亮は、自著『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』(平山亮/勁草書房)の中で、女性たちの見えざる「お膳立て」によって男性の介護が成り立っていることをあらゆる事例・角度から解説し、一貫して「息子」が履かされているゲタについて言及している。それがゆえ、「男だってつらいんだ」と叫ぶだけで、自身が履いているゲタに言及しなかった男性学の姿勢を厳しく問うている。
平山は、大黒柱として期待されることが男性の「生きづらさ」につながっているという主張にも懐疑的だ。女性が生存のために働こうにも性別を理由に就労機会や能力をはく奪される、字義通りの「生きづらさ」が横行している中で、男性が「一人前の男」(ここでは妻子を養うこと)になるためのプレッシャーを同じ言葉で表現することで並列のように見せてしまう現状に異議を唱えている。そして、性別役割分業によって夫が稼ぎ手役を一人で担うことは、妻への支配志向へつながると喝破する。
「『男性優位社会』の構造のもとで男性に突きつけられているのは、男性たちに支配の志向を『断念』することはできるのか、いかにしてその志向にとらわれずに済むのか、という問いである。その意味で、男性が『降りる』のは男性性ではなく、より直戴に『支配者としての地位』と言うべきであろう」(同書より)
一通り男性学に関する話題のエッセイは読んだという人には、次に読んでみてほしい1冊だ。
さて、ここまで見てきたように、男性支配社会、男らしさが持つ弊害はさまざまな場所で言われるようになってきた。では、この負の連鎖を断ち切るにはどうしたらいいか。次世代の男性をどう育てるかは、子を持つ親にとって喫緊の課題だ。それに応えるのが『これからの男の子たちへ 「男らしさ」から自由になるためのレッスン』(太田啓子/大月書店)や『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(レイチェル・ギーザ/訳:冨田直子/DU BOOKS)だ。
ことに前者は、まさに今の日本で小学生の息子2人を育てる著者によって書かれており、ジェンダーバイアスという罠にかからぬためのリテラシー教育の重要性もさることながら、性暴力やセクハラの加害者にならないための性教育に関して多くのページが割かれている。
また、次世代の男性に向けて「女性が女性というだけで感じている恐怖や不利益、不快感を、男性だというだけで受けずに済んでいる」ことは特権だと説明し、その特権を差別是正のために使うべきだと提言。そして、目の前でセクハラや性暴力が起こっているときに、「特権」を持っている男性が何もしないことは、「消極的に不正義の状況に加担する」ことだと、男性側の変化を促す。
男性学が登場した80年代は、過労死や長時間労働が表出し始めた時代だ。それゆえに、「やりがい搾取」と結びつきやすい男性性そのものの解放に焦点が当たっていた。しかし、18年に報じられた医大の不正入学事件が示した通り、「男性性」というゲタを履いた足が女性の権利を踏みつけていたことが明るみに出るケースが近年増えている。履き心地のいいゲタを手放したくない人もいるだろう。だが、そのゲタが本当に自分にとって心地よいものなのか、一度考えてみる必要がありそうだ。
「ジェンダーの議論をするとき、多くの男性の感覚は『壊れてないなら直すなよ』に要約できる。男性にとって現在の状況は問題ないらしい。それでは、『本当にうまくいってる?』と聞いてみたい。男性性の犠牲者の半分が男性だとしても?」(『男らしさの終焉』より)
(サイゾー21年1月号「男性学」特集より一部転載)
(文/小島かほり)
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