「父殺し」から「父の介護」へ──『カラマーゾフの兄弟』から読み解くドラマ『俺の家の話』
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長瀬智也“最後の作品”が『カラマーゾフの兄弟』である理由
『カラマーゾフの兄弟』は、世界文学史上最も著名な「父殺し」の物語である。物語中盤、父親は殺される。あらゆる面で父親と衝突し憎み合っていた長男に嫌疑がかかり、長男は身柄を拘束・逮捕され、裁判が始まる。三男は、殺害の真犯人がスメルジャコフであることを突き止める。スメルジャコフは、自分は確かに実行犯であるが、殺害をそそのかしたのは次男であると主張、自ら首をくくって死ぬ。次男は父殺しが自分の罪なのではと、自責の念に耐えきれず譫妄症にかかり、悪魔を幻視し法廷で発狂する。スメルジャコフの自死、次男の精神錯乱ゆえに有効な証言と証拠が出ないまま裁判は閉廷、潔白の長男に有罪判決が下り、シベリア流刑が言い渡される──。
精神分析家ジグムンド・フロイトは、その論考「ドストエフスキーと父殺し」において、父親が農奴に殺されたというドストエフスキーの実経験が、彼の創作に大きな影響を与えたことを明らかとしている。ドストエフスキーは、自らもまた心の奥底で「父の死」を望んでいたのではないかと葛藤し続けた。そして小説家として、「父殺し」という暗い欲動を、カラマーゾフの家系図に見事に落とし込んだ。長男と恋人を奪い合う金にも性にも汚い強欲な父、実の子どもと知りながら使用人としてスメルジャコフを扱う身勝手な老人。カラマーゾフの兄弟たちは、その物語は、はじめから「父殺し」を不可避的に必要としているのだ。
さて、あなたは、『俺の家の話』が、上述した『カラマーゾフ』のように進む(寿限無が寿三郎を殺害、後に自死、次男が発狂、無実の長男が冤罪となって実刑判決を受ける泥沼の法廷劇が開始)と予想するだろうか?
ここまでドラマを観てきた人ならば、「そんなこと起こるはずがない」と言い切るだろう。『カラマーゾフ』の設定を踏襲していることが明白になりながらもなお、そのような悲劇に陥る予感を、わたしたち鑑賞者は抱くことさえできない。このドラマは、あまりにも「軽くて早い」。この軽さと早さは、その前フリとしての「重さと遅さ」の対比の効果として生じている。
たとえば第2話、引退興行までしたにもかかわらず、寿一は覆面レスラーとして早々と復帰する。またその第2話で寿一は「跡取り」と紹介され門弟たちから激しい非難を受けるが、早くも翌週の第3話で彼らを納得させてしまう。さくらの素性と来歴が第3話で明らかとなり、悪徳な後妻業者ではないことが明かされる。寿三郎のことも異性として愛しているわけではないと告げ、家が乗っ取られるのでは、という心配は消え去る。また、寿三郎が子どもたちのことを深く思っていること、そしてさくらの本心に気づいていることが明らかとなり、第1話で見せた強欲な父親像は霧散する。
「後妻業」とさくらを罵った次男はさくらに惚れ、さくらは寿一に惚れてしまう。観山家の財政が緊迫していると語られる次のシーンの夕飯はすき焼きだ。「72年間我慢してきた」と第一話で啖呵をきった寿三郎だが、回を重ねるごとに過去の女性遍歴の派手さが明らかとなる。
極め付けは寿限無だ。第4話で実子であると寿三郎に告げられるまで、その40年間の人生全てを奉公人として過ごした寿限無は、第5話で家族旅行に帯同、第6話で早くも「俺もっと甘えていいかな。タメ口でいいかな」と父そして兄妹たちと完全に和解する。
このように、劇中持ち上がる重い問題は、驚くべき早さと軽さで乗り越えられてしまう。物語中の寿三郎よろしく、このドラマ自体がボケ続け、前提を捨て去ることで成立している。
この「乗り越え」と「捨て去る」過程が描かれていることが重要だ。ジェンダー平等指数が最底レベルのこの国で、老いた父たちは今も社会の上部で権力を握っている。能楽師であり人間国宝、権力者である寿三郎が、今までの人生で行った過ちを省みることがなく、寿限無を子どもと認めなかったならば、過去の愚行を反省し訂正し謝罪することがなければ、あるいは物語は『カラマーゾフ』ルートを辿ったかもしれない。
しかし、ドラマはそうはならなかった。権力ある老いた父が、病に倒れ、己の人生の至らなさを認め、反省し謝罪し、子供たちと向き合い、そして「介護」を受ける物語こそが、『俺の家の話』である。
現代日本が直面する、「父の介護」という重苦しい問題を、軽妙なコメディとして大衆ドラマに仕立て上げるためにこそ、『カラマーゾフの兄弟』という重厚な「父殺し」の作品が物語の準拠枠として必要とされた。第6話の放送が終わった現在、そのように仮の結論を出すのは、あながち的外れではないはずだ。
さて最後に、長瀬智也が『俺の家の話』の主演であることの意味を、『カラマーゾフの兄弟』から考えてみたい。
周知のように、長瀬は本作をもってジャニーズ事務所を退所し、裏方に専念することが決まっている。俳優としての出演作は本作が最後となると目されている。宮藤官九郎そして製作陣は本作のインタビューで「現時点の長瀬智也の最高傑作をつくる」と発言している。「現時点」であり、「最後」ではないところに着目したい。『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキー最後の作品である。
しかし実は、『カラマーゾフ』は二部構成となるはずであった。作者の死により叶わなかったが、物語には続編があった。「戻ってくるなら一緒にやろう、この物語には続きがあるから」──『俺の家の話』が『カラマーゾフの兄弟』を意識して作られているのなら、そこにはそのような、去り行く盟友・長瀬に対する製作陣からのメッセージが込められているのかもしれない。(了)
*本記事は、第6話放送後に書かれた。
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