国が押し付ける「男らしさ」の呪縛──現代にはびこる“ヘゲモニック(覇権的)な男性性”
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──男というのは、いつの時代も変わらない。しかし、近年は「オトコのあり方」というものが、社会の変容によって崩壊しつつあり、男たちもそれに順応しようとしてきているが、そもそも「男らしさ」とは一体何なのだろうか? 前後編で解説していきたい。(サイゾー21年1月号「男性学」特集より一部転載)前編はコチラ
性別による役割分業は日本では明治以降に本格的に展開していくが、その一方で日本における「理想の男性像」は戦前と戦後で大きな転換を迎えていく。
「戦前の男は非常に権威的で、時には暴力に訴えることも肯定されたのですが、敗戦の反省を経て、夫婦も親子も家族関係が民主的なものになります。平和な民主主義の時代に相応しい、男女平等で子どもに優しく接する男性像へと大きく変わるんです。実際、1960年代には『マイホームパパ』という、仕事より家庭をある程度優先する優しいパパ像も広まります。その一方で、戦後から20年くらいだと、まだ揺らぎがあります。60年代後半、戦後2番目の少年非行のピークが来ていたことを背景に、作家の石原慎太郎は非常に家父長的な思想の『スパルタ教育』(光文社)という本を執筆し、これはかなり売れました」
男らしさというものは、とんとん拍子で順調に変化していくものではなく、揺り戻しやさまざまな論争を通じて、その社会における理想的な男性像が形づくられていくというもののようだ。1月26日公開予定の記事で詳しく紹介されているが、国民的アニメ『サザエさん』の波平は害悪であるという主張のように、理想とされる男性像は数十年で変化していく。
しかし、ともすれば我々は「おままごとしたい」という男の子を見て、男らしくないと感じてしまうなど、男らしさ/女らしさに単一のパターンを求めてしまいがちだ。
「かつての日本社会はみんな結婚して子どもを産み、男性は外で働いて女性は主婦になっていくという、非常に単純な社会で理想像も確立されやすかったんです。でも、今は結婚する人もしない人もいて、結婚しても子どもを持たない人もいます。近年はとりわけセクシュアリティにおいて多様性が認められるようになり、性について議論するときにLGBTQは大前提になっています。非常に単純な性別観の中で生きてきた、例えば現在の40代以上の人たちの中には、男と女の二分法的なカテゴリー自体が揺らいだことで、男らしさとは何か、戸惑う人も多いんだと思います」
こうして、人々は「男らしさ」とは何かを悩んでいくわけだが、そもそも「男らしさ」とはあくまでもイメージであり、決まった型があるわけではない。田中氏によると、前出のコンネルが95年に『Masculinities』という著書を執筆して以降、学術の世界で男らしさのパターンが複数あることは常識になっているという。
「マスキュリニティー(男性性)という単語には文法的に複数形はないわけですが、学術的な研究の中でコンネルが考案したマスキュリニティーズという表現は非常に一般化しています。それまで、ジェンダー論は単純で男らしさと女らしさの対比のみで語られがちで、男女の二分法で分析する傾向がありました。そんな中でコンネルは『男らしさというのは社会の中で、複数のパターンがある』ということを指摘して、複数形としての男性性というものを考案したんですね。これは前出のヘゲモニックな男性性の重要な部分で、複数の男性性が覇権争いをしているということを意味します。社会には複数の『男らしさのパターン』があって、何が優位になるのかは、時代の状況によって可変的なわけです。ただし、これは一般的には理解されていないため、今でも男らしさというのは単一のパターンというように思われているんですね」
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