「40歳過ぎてバイトやめられない芸人」TAIGAの涙で見た、お笑い芸人が揺れるリアルと演出の間
#アメトーーク! #お笑い芸人 #TAIGA
僕が子供の頃、テレビの中には日常とはかけ離れた世界が存在した。
ビートたけしさんがMCの『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ)で巨大な大仏が町を歩いたり、半魚人が襲撃してきて最終的に月島でカフェを開いたり、加藤茶さんと志村けんさんの二人でドラマ仕立てのコントを見せる『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(TBS系)では、スイカの種を食べてしまった人間がゾンビさながら人を襲うスイカ人間になり、仲間を増殖させ、町がスイカ人間で溢れかえり、最終的には天ぷらで撃退する(食い合わせが悪い)など、そこにリアリティの有無は一切関係なく、演出があると理解したうえで楽しんでいた。
僕はそんなエンターテイメントの世界に憧れて、お笑い芸人を目指した。
だがここ数年、視聴者がテレビやネット番組に対して求めるものが変化しているように感じる。
何を求めているか――それは日常とはかけ離れた夢のような世界ではなく、身近に感じるリアリティさだ。
男女がひとつの家に住み恋愛する様を観察する番組だったり、自分と同じような一般人が生活のルーティーンを見せるYouTubeが流行ったりするのはその証拠だろう。
そのリアリティを求める波は、芸人にも迫っている。
芸人を表現するときに「親が死んだ日でも舞台に立ち、涙を見せずに観客を笑わせた」という話は、ひと昔前ならを美談だった。
これは私生活で辛いことがあったとしても、素の部分を隠して舞台に立つ芸人のプロ意識やエンターテイメントの根底を表現しているが、今はその逆になりつつある。
分かりやすい例を挙げると、日本一の漫才を決めるM-1グランプリでも、ネタを見るだけでは完結せず、出場者の苦労や苦悩を見せるアナザーストーリーを放送することにより完結する。
つまり観客は”練って作り上げられた芸”と”芸人の素の部分”の二つを楽しんで鑑賞している。
1月21日に放送された『アメトーーク!』(テレビ朝日系)で「40歳過ぎてバイトやめられない芸人」という回で、とあるピン芸人が注目を浴びた。
テレビ番組の大道具やウーバーイーツの宅配で生計を立てながら芸人活動をしている「TAIGA」という芸人だ。
注目された理由はネタではなかった。TAIGAさんが奥さんに『アメトーーク!』のオーディションに受かったと報告し、それを聞いた奥さんが涙。今まで貧しい思いをさせたとTAIGAさんも涙を流しながら伝える。それに対して奥さんが「世界一面白いと思ってる」と素直な思い伝え、2人泣きながら喜び合う。VTRが終わり、スタジオのカメラに号泣しているTAIGAさんが映る。
このエピソードにツイッターのイイネが6500件を越え、トレンド入りも果たした。芸人の下積みの苦労や夫婦の絆に、視聴者が感動した結果だ。
芸人がプライベートを見せるという少し前まで敬遠されてきた行為が、今は求められているのだ。
ただ彼のケースはリアリティを放映し成功したパターンである。逆にリアリティを求めるあまりに悪い方向へいってしまった例もある。
それは”ヤラセ”である。
視聴者を楽しませるための”演出”がいつの間にか”ヤラセ”という悪い表現になり、許されない行為として認識されるようになった。
前述した恋愛リアリティショーは日常生活の一部を切り取って毎週放送して視聴者を楽しませる。自分の生活に置き換えて見て欲しい。
あなたの生活の一部を切り取り、毎週視聴者を楽しませることが出来ますか? 出来ないはずだ。本当のリアルな生活は、毎日人に話せるような面白い事件はおきるわけではない。
「今週は特に何もありませんでした~」という回があったとして、視聴者は「リアルだな~」と満足するのだろうか?確実にしないだろう。
よってこの場合、普段の日常をそのまま放送するのはNGなのだ。
あくまでリアリティショーは”ショー”であって現実ではない。脚本や演出があってこそショーが成り立つ。言ってしまえばそういった類の手を加えた何かがなければエンターテイメントとして成り立たないのだ。
となるとテレビとして成り立たせるために多少の加工をするのは、至極当然の事だ。視聴者がテレビに対してリアルを求め続けた結果、それが本当に現実であるという妄想に変わり、最悪の結果を引き起こすケースもある。
番組の演出で悪役になってしまった人が、現実の世界でも悪者だと思われ、SNSなどで誹謗中傷を浴びてしまう。エンターテイメントが非現実的な遠い世界に存在していた時代なら、こんな事は起こらなかったかもしれない。
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