“女性映画の名手”成瀬巳喜男の監督作『浮雲』 敗戦に対する声なき怒りをメロドラマで表現
#映画 #キネマ旬報
こんばんは!宮下かな子です。最近古民家暮らしの方のYouTube動画にハマっております。山奥の空気の良い場所で、釜で炊いたご飯を食べたいな~と、そんな妄想を膨らませているおうち時間です。
さて、第3回目の配信で、『二十四の瞳』を紹介させて頂いたのですが、その時ヒロインを演じていた高峰秀子さんに関する本を何冊か読みまして。それ以降、高峰さんにどっぷり魅入られています。せっかくなので、高峰さんの他作品にも触れられたらと思い、今回は成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955年東宝)をご紹介することにしました~!
〈あらすじ〉
戦時中、仏印の勤務先で出会い関係を持った幸田ゆき子(高峰秀子)と富岡(森雅之)。終戦後ゆき子は、妻と離婚すると宣言していた富岡のもとを訪れると……堕ちるところまで堕ちていく、男女の壮絶な恋愛物語! 女性映画の名手とも言われる成瀬監督ですが、中でもこの作品は数々の賞を受賞し、成瀬巳喜男監督の最高傑作と称されています。
以前ベテランのスタッフさんに「メロドラマだから若い子には分からないかな~」と言われたこともあったのですが、私なりに気付いたことを解説してみようと思います! まず、恋愛映画なのに、ゆき子と富岡がお互いに愛を伝え合うシーンがほとんどないということ。それなのに鑑賞後、壮絶な恋愛映画を観たな……というどっぷり重たい余韻が残るんです。
無愛想ながらも狡猾で、新しい女を転々と作る富岡。そんな富岡にゆき子は不満を吐き続け、富岡は口をつぐむばかり。一方富岡も、ゆき子に恋愛感情があるようには見えないんですよ。
それでも2人は離れることなく、お互いの存在を必要としている。異性に執着している映画はよくあると思うのですが、それとは違った男女の奇妙な関係性に違和感を感じました。
何故お互いに執着しているのか、そこで重要になってくるのが時代背景だと思います。終戦後仏印から帰国すると、ゆき子はまともな職につけず、米兵の娼婦として生活するようになります。
変化した日本を目の当たりにしたゆき子が富岡に、
「昔のことが、あなたと私には重要なんだわ。それを失くしたら、あなたも私も、どこにもないじゃないですか」
と言うのです。この言葉から、ゆき子が執着しているのは富岡自身というよりも、富岡との過去なのではないかと思いました。
富岡も同じく、職を離れ、変化に対応できずにいる様子が描かれています。
その後、
ゆき子「私たちって行くところがないみたいね」
富岡「そうだな。どこか遠くへ行こうか」
という会話を経て2人は旅に出るのですが、終戦後の日本の変化を受け入れられず、溶け込めないという共通点が、2人を離さない腐れ縁のような関係性にさせているのではないかなと思いました。
仏印での様子は回想シーンとして度々出てくるのですが、ゆき子はため息が出る美しさだし、富岡も生気があって断然魅力的なのです!生い茂る森の生命力が、満ちている2人の心情を象徴しているようだったり、ゆき子の衣装が純白なワンピースや肌の見えるドレスであったり。モノクロ映画だからこその視覚的アプローチで、仏印と帰国後の日本との差を明確に強調しているような成瀬監督の意図を感じました。
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