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日刊サイゾー トップ  > 『麒麟がくる』明智光秀“生存説”の裏話

『麒麟がくる』“明智生存説”をひもとく「本能寺の変」のあとに見つかったのは“3つの首”だった!

──歴史エッセイスト・堀江宏樹氏が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、 ドラマと史実の交差点をさぐるべく自由勝手に考察していきます! 前回はコチラ

『麒麟がくる』明智生存説をひもとく「本能寺の変」のあとに見つかったのは3つの首だった!の画像1
『麒麟がくる』ホームページより

 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』も、ついに最終回を迎えることになりました。ドラマでは天正10年(1582)6月2日の「本能寺の変」での織田信長の死を、クライマックスとして描くことになりそうです。しかしこの時、明智光秀の命も実は残り11日になってしまっていたのですね。

 最終回のもう一つのクライマックスが明智の死になるでしょうから、今回は「本能寺の変」とその後の明智の足取りを史実(とされるもの)からたどってみたいと思います。

 信長の遺体が本能寺の焼け跡から見つからぬまま、明智たちは安土城に入りました。そこで明智は信長の残した巨万の富をわがものとしました。そして彼が行ったのが、味方の武将や朝廷のお歴々へのバラマキ行為、つまり賄賂作戦だったのです。

 戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によると、明智の大盤振る舞いは桁外れに凄まじく、現代日本の貨幣価値で、数十億円規模だったと言われます。

 信長は公家たちには良い顔を見せているが、庶民は信長に迷惑していると、尾野真千子さんが演じる伊呂波太夫がドラマの中で文句を言っていましたよね? 手堅い明智は、京都の庶民たちへの減税策も打ち出しています。

 それでも明智に味方をする者たちは少なかったのでした。恐らく、明智は名臣ではあっても、主君たりえない男だと判断されたのでしょう。盟友であった細川藤孝にさえ裏切られた明智は、天正10年6月13日「山崎の戦い」において、秀吉に敗れてしまいます。しかも敗走中の明智は農民たちからも裏切られ、首を奪われてしまいました。もしくは、死を悟った明智が切腹、介錯した家臣がその首を届けたという話もありますが、これらに関しては奇怪な事実があります。

「明智光秀の首」として秀吉側が入手できた首は1つではなく、なんと3つもあったのです(そしてそのそれぞれが、明智の首塚として日本各地に存在)。

 しかし、旧暦の6月は現在の8月ですから、死後数日もたてば腐敗は相当なものです。秀吉側による首実検はこの手の理由で厳密には行われず、簡略に済まされてしまったのでした。こうしたことから「明智は実は死んではいない」という生存説が唱えられるようになったのです。

有名な明智光秀=天海僧正説の信ぴょう性は?

『麒麟がくる』明智生存説をひもとく「本能寺の変」のあとに見つかったのは3つの首だった!の画像2
天海像(木村了琢画・賛、輪王寺蔵)

 数ある明智の生存説として一番有名なのは、明智光秀=天海僧正説です。天海は天台宗の高僧でありながら、徳川家康のブレーンとして活躍、その豊臣家攻略を助けました。そして107歳という驚異的な長寿の末に亡くなったというのです。すでに家康の世どころか、その孫である家光の時代になっていました。

 伝説によれば、明智は「山崎の戦い」で秀吉に敗れた後、比叡山に逃げ込みました。比叡山も明智を手厚く受け入れ、すでに亡くなっていた僧侶「南光坊天海」に成り代わらせたというのです。

 実際、比叡山の「不動堂」には「光秀」を名乗る人物から、慶長20年(1615年)の日付で石灯籠が寄進されており、謎めいた経緯はあるのです。ちなみに慶長20年は豊臣家が滅亡した年です。

 しかし、本当に比叡山は明智に協力的だったのでしょうか? ドラマの中での明智は、「比叡山で出会った者は女子供に関係なく、切り捨てろ」という信長の命に従わず、恩情を施していました。しかし信頼できる史料にこうした一節はなく、むしろ明智がノリノリで焼き討ちに協力したことが本人の手紙で明かされていたりもします。

 一方で、明智による“アフターケア”は確かにあったのです。明智が攻めたのは比叡山・延暦寺の里坊(さとぼう/山寺の僧などが、人里に構える住まい)の多かった坂本という町ですが、その後の明智は坂本の町の復興に積極的に携わり、とくに西教寺という寺の再建には熱心さを見せました。本心では焼き討ちになど加担したくなかったかのように。

 ……というわけで、比叡山が明智に対し、門戸を開く可能性はなきにしもあらず、といったところでしょうか。

 ただ、例の石灯籠にも「願主 光秀」と刻まれているだけで、それが明智光秀かどうかの確証はありません。天海僧正が熱心に関与した、徳川家康の霊廟である日光の東照宮にも、明智家を思わせる要素があるといわれますが、明智家の家紋である桔梗紋が見られる、という指摘は完全な誤認です。

 東照宮の建物に見られる紋様は美術史では「唐花紋」と呼ばれるもので、当時の建物の装飾に普通に使われている意匠にすぎません。また、東照宮の近隣に「明智平」という地名があるという話もあるのですが、これはどう考えても「こじつけ」なんですね。

 また、天海=明智説の最有力根拠といわれているのが、「三代将軍・家光の乳母だった春日局が天海に面会したとき、お久しぶりですと挨拶した」という記録です。しかし、それだけで天海=明智と言い切るのには無理があると筆者には思われます。

 天海=明智説の出どころも現時点ではよくわからず、確かなことは20世紀初頭に「奇説」として一部の歴史マニアに語られていたことがわかる程度なのでした(大正5年<1916年>天海の伝記『大僧正天海』の著者・須藤光暉の記述による)。

 テレビ番組の企画には、天海と明智の筆跡が同じか鑑定するという趣旨のものもあったようです。「同一」という結論を出す人もいるようですが、画像で比べてみたところ、筆者の目には「まったく違う」と受け取られる代物でした。

 書き手の個性が文字に出るのは事実です。しかし、当時は個人の手癖だけで文字を書くことは上流階級にはなく、「○○流」というように、身分や職業、TPOによって使う書体が異なりました。まったく同じ書体を使った時にしか、同一人物の検証など行い得ないと筆者には考えられます。年齢によって、同一人物ですら筆跡は変わるものですし。

 というわけで、やはり明智光秀は「山崎の戦い」で破れた後、「この世から消えた」と考えるのが筆者の結論です。

 絶命しなかった可能性はありますが、明智が比叡山に逃げ込んだところで、そのまま静かに余生を過ごしたでしょう。少なくとも天海僧正のように表舞台で活躍することは不可能だったはずです。

 天海が仕えた徳川家康は家臣の裏切り……つまり、謀反や造反行為に大変厳しい武将として知られます。謀反人の明智を自分のブレーンとして、あの慎重派の家康が信じ込むことができるでしょうか? もし、家康が「本能寺の変」の黒幕で、明智をけしかけた張本人であれば話は変わりますが、その可能性も低いでしょう。

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