織田信長の妻・帰蝶はなぜ“気の強い女性”として描かれるのか? キャラを決定づけた “壺事件”と謎めいた半生
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大河ドラマ『麒麟がくる』の放送回数も残すところ少なくなってきましたね。
前回の放送では、明智(長谷川博己さん)への信長(染谷将太さん)の暴力が本格化する一方で(もし、斎藤道三が生きていたら)「毒を盛る。信長殿に」と宣言する帰蝶(川口春奈さん)まで登場しました。あまりに強気すぎる『麒麟』の帰蝶、史実ではどうだったのでしょうか?
帰蝶についてはこれまでの連載の中でも触れてきましたが、文字数との兼ね合いでお話しできていないこともあるので、今回は、「謎の女」帰蝶について再びお話ししていこうと思います。
帰蝶が生まれたのは天文4年(1535年)だとされています。没年は記録がまったくないので不明ですが……。
信長と彼女が結婚した時期さえ実は不明で、『信長公記』にも具体的な時期はないものの、歴史創作物で採用されがちなのは、天文18年(1549年)の春、信長が16歳の時、帰蝶が15歳(ともに数え年です)での結婚だったといわれる説です。
斎藤道三が、嫁ぐ娘・帰蝶に懐剣を手渡し、「本当に織田信長がうつけものであったなら、これで刺し殺して帰ってこい!」などと物騒なことを言うと、娘も娘で「わかりました。しかし、この懐剣がいつしか父上を刺す日がくるかもしれません」と言ってのけたので、斎藤道三は「よくぞ言った! さすがは我が娘じゃ!」と喜んだ話があります。まさに戦国の父娘という感じですが、江戸時代に作られた逸話で、実証性はありません。
どうも強い女として帰蝶はイメージされ続け、そのキャラにのっとって、さまざまな逸話が創作されていったようなのですね。
他にもこんな逸話があります。1カ月間、信長が夜に寝所を抜けだし、明け方まで帰ってこない日々が続いたので、浮気を疑う帰蝶が彼を問いただしたところ(これも戦国時代の正室としてはかなりの気の強さです)、信長は「美濃の斎藤道三を暗殺するべく、私の家臣を送ってある。暗殺成功の知らせが来ないか夜も確認している」などと言うのです。帰蝶は父・斎藤道三が心配で、その旨、手紙を書いたのですが、信長の話は真っ赤なウソで、疑心暗鬼に陥った斎藤道三は無罪の家臣を二人も殺してしまった……などという、帰蝶の気の強さや、実父への想いが悪く働いてしまった、実に後味の悪いオチがついている逸話もあります。
まぁ、これも江戸時代に書かれた逸話にすぎませんが……。
これらは、美濃から15歳で織田家に嫁いできたものの、その後、確かな資料で見る限り、信長との間に一人の子を授かることもなく、いつ亡くなったかもわからない「謎の女」帰蝶のミステリアスな側面から膨らませた逸話だとも考えられます。
それでは、『麒麟がくる』でも採用されている、帰蝶の強気な一面にまったく実証性はないのでしょうか。実は、そうでもないようです。
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