山口組はどうして分裂したのか? 不景気と厳罰化が生み出した「前代未聞の離脱劇」
#六代目山口組 #神戸山口組 #山健組 #弘道会
今さらながらではあるが、そもそも「山口組が分裂した理由」を理解している人は多くないのではないだろうか。一般的には、弘道会主導の六代目山口組運営体制に不満が募った勢力が2015年に離脱したとされるが、どんな組織にもなにかしらの不満分子を存在するもの。また、五代目体制以前も、そうしたこと執行部への不満があったとしてもおかしくない。だが、山口組の長い歴史の中で、このような分裂は起こらなかった。では、なぜ、今回に限り、分裂という事態を招いたのか? 5年以上の月日が立ったからこそわかる、分裂の要因を考察してみると――。
1989年~2005年まで続いた五代目山口組体制時代、組織内で圧倒的な勢力を誇っていたのは山健組であった。「山健にあらずんば山口にあらず」とまで言われたほどで、組員数は8,000とも10,000人とも言われたほどだ。当時の山口組組員が3万数千万といわれていたことから考えると、おおよそ3人に1人は山健組、もしくは山健組から直参へと昇格を果たした山健組勢力だったことなる。
なぜ、山健組が山口組の中で、そうした巨大勢力となっていったのか。それは、山健組から山口組組長を輩出したからだ。これは現在の六代目体制と同じ構図となる。六代目組長を輩出した弘道会は、その後、必然的に山口組で最大勢力となった。対して、それに反発したかつての“主流派”山健組を中心とした勢力が、山口組を割って出たのだ。これが分裂騒動の始まりです。ならばなぜ、五代目体制当時には分裂が起きず、六代目体制では分裂が起きたのか。
まず、時代背景の影響があったといえるだろう。五代目山口組が発足された1989年といえば、バブル経済の只中といえる好景気で、ヤクザの組員たちも経済的に豊かな時代であった。バブル崩壊後も、その余韻を色濃く残しており、偉くなればなるだけ財をなすこともできた。そのため、六代目山口組分裂時に神戸山口組が離脱理由のひとつとしてあげた、執行部サイドによる厳しい金の吸い上げという概念が存在しなかった。組織運営のシステムとしては、五代目体制でも六代目体制でもそこまでの違いはないのだが、経済的な余裕が両体制では違ったのだ。
さらに五代目体制では、不満分子が暴発するようなことが起きれば、武力を行使することでそれを封じ込めるとことができたのだ。仮に抗争が起き、相手を射殺したとしても、15、16年の懲役で社会へと復帰することができたし、執行部はそうした身体を賭けた組員や家族を金銭的に面倒をみるなど、それに報いるだけの余力があった。そうなれば、未来に前向きな展望を持ってヒットマンを志願する組員が存在したとしてもおかしくなかった。実際に武力が行使される場面はなくても、執行部に背けば命が狙われるかもしれないという恐怖は、不満分子への大きな抑止力になっていたのだ。
だが六代目体制では、ヤクザを取り締まる新たな条例も施行され、犯罪の軽重にかかわらず、罪を犯したヤクザを厳罰化する流れが加速する。有期刑の天井が20年から30年に跳ね上がり、五代目体制当時では社会復帰できたようなヒットマンによる武力行使も、六代目体制で同じことをすれば、ほぼ再び社会の地を踏むことは不可能な状況になったのだ。
重ねて、世の中が不景気に加えて、厳しくなった法規制の中でヤクザがさらにシノギをしづらくなったことで、組織の経済状況は下落の一途を辿り続け、組員に身体を賭けさせたても、それに報いるだけの余裕が失われたのだ。
つまり、六代目体制下では、経済が悪化し、金の吸い上げに対する不満、その改善要求を聞き入れてくれない六代目体制への不信感が一部組織で募る一方、抑止力が働きずらくなった時代への突入にしたのだ。
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