織田信長は“パワハラ上司”じゃなかった! 戦国時代のアルハラと“明智光秀いじめられっ子説”の出どころ
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江戸時代に人気のない信長はヒール役に?
ドラマにも出てきましたが、明智は稲葉一鉄の家臣・斎藤利三を引き抜いたことがありました。これに怒った信長は、明智の髻(もとどり。いわゆる“チョンマゲ”を想像してください)を掴んで、投げ飛ばしたという話が『川角太閤記』という資料に出てきます。記述は時代が下るとともにエスカレート、『続武者物語』では、信長が明智の頭を掴んで、敷居にこすりつけたという記述まで登場するのです。
投げ飛ばしたり、頭を掴んで引きずったり、まるでプロレスの場外乱闘のようですが、本当は小柄だった信長にそこまでの怪力があるとは想像できず、また、これらの『川角太閤記』『続武者物語』の資料は共に江戸時代の“歴史小説”であり、つまりフィクションなのでした。
実は江戸時代、信長は人気がなかったのです。そのため、彼を一方的に悪者にするような逸話が盛られたわけですね。そして「本能寺の変」の原因として、明智による信長への怨恨説が唱えられはじめたのも、江戸時代のこの手の歴史創作物の中だったのです。
それでは、明智に対する信長の暴力がまったくの絵空事だったか……というと、前述した宣教師フロイスが『日本史』に興味深い記述をしていることだけは確かなのでした。
「本能寺の変」の約1カ月前、1582(天正10)年5月に、徳川家康が信長のもとを訪れた時、その接待を担当したのが明智だったのですが、準備段階で二人の間に諍いがあったというのです。
とはいえ、それも「信長はある密室において明智と語っていたが(略)、人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである」というウワサを、フロイスが聞いたという報告にすぎないのです。人前ではなく、密室で、というあたりも興味深いですね。
実はこれが、信長のパワハラの記録として信頼できる、そして同時代人による唯一の史料なのでした。
例の家康を歓迎する宴の席で、明智の用意した魚料理が「腐っている!」と信長が激怒、みんなの前で明智を折檻したという説もありますが、これも例によって江戸時代の『川角太閤記』が、フロイスのエピソードを大幅に“盛った”結果です。信頼できる『信長公記』によれば、この宴席はとくに問題なく終了していますから。
繰り返しますが、信長が明智を痛めつけた記録はこれ以外まったく存在していません。この明智の一件以外に、他の家臣を信長がいじめたという記録も「ゼロ」なのでした。要するに、明智が信長に手をあげられたという記録は「ほぼ、ない」。これが文献上の正解なのですね。
現代日本では、「パワハラ上司」の典型として描かれることも多い織田信長。「風評被害だ!」と言って、あの世の信長は怒っているかもしれませんよ。
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