『麒麟がくる』ジャニーズJr.が演じる織田信長の長男、その死が織田家の運命を変えた!?
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年をまたいで放送される異例の「大河ドラマ」となった『麒麟がくる』。
2021年最初の放送回「本願寺を叩け」では、織田信長の嫡男・織田信忠が美しく成長して登場し、ネットでも話題となりました。織田信忠を演じるのは井上瑞稀さんで、ジャニーズ好きの方ならご存じかもしれませんが、「HiHi Jets」のメンバーの方ですね。織田信長をはじめ、織田一族は美形揃いだったという説を『麒麟がくる』では踏襲しているようです。
「テストのときに監督から『そんなんじゃ、誰もついてこないよ』と言われて、逆にリラックスできました。声の張り方や動作など、自分がやるべきことがはっきり理解できたので・・・。総大将として自分がみんなを引っ張っていく!それからは楽しく撮影できました」(井上瑞稀)#麒麟がくる pic.twitter.com/WNlDE3GGEv
— 【公式】大河ドラマ「麒麟がくる」毎週日曜放送@nhk_kirin) January 10, 2021
以前、ドラマの中で帰蝶(川口春奈さん)が、明智光秀に「これは天から降ってきた子じゃ」と言って、育てることにした赤子(幼名・奇妙丸)が、後の織田信忠です。織田信忠を産んだ実の母親は史料によると「久庵慶珠」という女性(呼び名は諸説あり)ですが、これは彼女が出家した後の法名です。
俗名はなんだったのかなど、確実な情報は残されていないことから、信長にとっては正式な側室ですらなく、ワンナイトのお相手程度だった可能性もあります。そんな相手に妊娠されてしまい、信長としてもどうしようかと思っていたところ、生まれた子が男の子だったので、帰蝶に養育を任せてみたという“流れ”が筆者には推測されるのでした。
織田信忠が生まれたのは弘治3年(1557年)のこと。信長と帰蝶が結婚したのは天文18年(1549年)ですから、信長は帰蝶との間に子を授かることをすでに諦めていたのかもしれません。なお、信長の「御台所(=正室)」が、成菩提院という寺で出産した記述が『近江国輿地志』には出てくるので、帰蝶にも出産説はあるのですが、その後の情報がなく、死産だった可能性もありますね。
とにかく、子がいなかった織田信長と帰蝶の夫婦のもとで、大事に養育されたのが信忠だったということです。残り少ない『麒麟~』の放送回数から考えると、織田信忠役としての井上瑞稀さんの見どころは、「本能寺の変」で討たれる信長に殉死するべく、戦死するシーンくらいしかなさそうな気がしますが……。
謎めいた信長の死に様については、後に語る機会もあろうかと思いますので、今回は信長の死のミステリーのインパクトにかき消されてしまいがちな、織田信忠の死の謎に迫りたいと思います。
実は、織田信長の遺体が見つかっていないのと同じように、その嫡男・織田信忠の遺体も現時点で行方不明のままなのでした。ただ、織田信忠がどういう死に様を遂げたかは『信長公記』に情報があり、信長ほどすべてが謎というわけではなさそうです。
『信長公記』の「十五巻」によると、天正10 年6月2日未明の「本能寺の変」勃発時、本能寺に滞在していた信長が明智軍に討たれたと聞いた織田信忠は、父の救援に向かおうとしました。
彼が滞在していたのは妙覚寺という寺で、本能寺(当時)から、直線距離で約1キロ離れていました。しかし父・信長の手勢が約100人、信忠が率いていたのも数百名程度。それに比べると明智光秀の軍は1万人を越えていましたので、戦えば負けるのは確実でした。それでも軍勢を率いて妙覚寺を出発しようとした信忠を、父・信長の部下だった村井貞勝とその息子が引き留めます。
村井の発言をまとめると、「もはや信長公は討ち死になさっており、本能寺に向かっても意味はない。防御性の高い二条御所に移動してみてはどうか」ということで、信忠はその通りにします。二条御所とは、織田信長が推していた誠仁(さねひと)親王(正親町天皇の皇太子)の住まいなのですが、事情を話して、誠仁親王とその家族には、天皇のいる御所(内裏)まで退去してもらうことになりました。
ただ、二条御所は防御性だけ高くても、武器弾薬の貯えはほとんどなく、また兵の数にして明智勢に300倍以上も負けています。そのため、やがて織田信忠に自害する時がやってきました。「やがて」と書いたのは、実はいつから二条御所を明智勢が攻撃し、織田信忠がいつ自害したのかを示す史料が存在しないからです。
興味深いことに、織田信忠に自害を勧めながら、本人は逃亡成功している織田長益(おだ・ながます、信長の弟。信忠の叔父)、そして信忠の嫡男の三法師(さんぽうし、のちの織田秀信)などがいます。
織田信忠が切腹する際、彼の首を落とす介錯役を務めた鎌田新介まで脱出に成功しており、彼が信忠の首を持って逃走したと推定はできるのですが、その後の首などの遺体の行方はまったく分かっていないのでした。
また、二条御所の隣接地には近衛前久の屋敷があり、その屋根にのぼった明智勢が二条御所を火矢で攻撃しはじめると、ついに二条御所は燃えはじめました。
しかし、焼け跡から、織田信忠の遺体は見つからぬままだったのです。
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