映画『ヤクザと家族 The Family』が描く「現代ヤクザの現実」…家族も差別される異常さを浮き彫りに
現代の「ヤクザのリアル」を追求した映画『ヤクザと家族 The Family』(監督・藤井道人)が1月29日に全国で公開されるが、すでに各所で話題を呼んでいるという。特に、筆者も含む、ヤクザの世界に身を置いた者や、そこを取材してきた者からすると、ドキュメンタリーかのような、人間たちの生臭さの映し出し方が秀逸に感じるのだ。
では、この映画にはどのようなヤクザ像が描かれ、どういった点がリアルなのか。それらを通して見える、現代に生きるヤクザの人権や問題とは一体何なのだろうか。
法的には認められたヤクザという存在
どれだけ法規制によって権力から弾圧を受けようとも、反社会的勢力と位置づけ、社会から排除される流れになっても、今も日本という国でヤクザがヤクザとして存在しているのは紛れもない事実だ。
基本的には地下に潜って活動する多く国のマフィアなどと違い、日本のヤクザは、その実態を隠すことなく社会に存在している。組織の看板を掲げた事務所を持ち、組員であることを内外の謳う者は少なくない。なぜ、そんなことが可能であるかといえば、ヤクザ組織を作ることやその組員であること自体は罪とはならないからだ。
では、なぜ日本では、反社会的勢力と位置づけながらも、ヤクザであること自体を罪と定めないのか。それはヤクザと他国のマフィアとの質の違い。根底にある概念の違いではないだろうか。
マフィアの場合、犯罪集団という体質がより明確化され、社会的合意を得ている。対して、ヤクザとは、あくまで任侠道の精神を神髄として生きる者をいい、その中で犯罪に手を染める者がいるのは事実だが、ヤクザ組織がイコール犯罪集団ではない。現に他国のマフィアに対しては、不良外国人として、国内での活動を阻止している自警組織的な側面も持つヤクザ組織も多い。
だからといっても、その存在が正義であり、必要悪かといえば、そうではないだろう。だからこそ、当局はヤクザであることに対しては罰を与えなくとも、組員から生活の権利を奪うに等しい厳罰化を進め、社会からの締め出しを行い続けているのだ。
だが、ヤクザからしてみれば、そもそもそれがどうしたという程度の話だった。ヤクザが暴力団と呼ばれて、一般市民から恐れられるようになったのは、昨日今日の話ではない。善か悪かで突き詰めれば、誰しもが悪だと認識としている。ヤクザになるということは、そうしたことを承知の上で盃を呑むのである。それが血さえも超える盃の重みであり、血縁関係すらも超える絆であった。
たとえ太く短い人生だったとしても、任侠道にそって激しく生き、一瞬でも輝く瞬間があればそれでいいという刹那的な生き方こそが、ヤクザの生き方だったのだ。
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