明智光秀「敵は本能寺にあり!」とは言っていない?『麒麟がくる』は織田信長の死に残された謎をどう描くか
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偉大なスター・信長の死の真実はどこに
『乙夜~』は、江戸時代初期に加賀藩に仕えた兵学者・関屋政春(せきやまさはる)が、聞き書きした内容を自筆でまとめた(とされる)書物です。
写真で見る限り、保存状況がかなり良い……良すぎるという気がしないでもありませんが、この『乙夜~』の原本は、旧・加賀藩主の前田家から金沢市に第二次世界大戦後に寄贈されており、それを今回、富山市郷土博物館の萩原大輔氏が「読み解いた」そうです。が、朝日新聞によって持ち上げられすぎた感があり、ネット上での反応も収拾がつかなくなっている気もするのが正直なところ。
『乙夜~』(1669年以降に成立)は、信長関係だけでなく、宇喜多秀家などについての記述でも有名です。他書にはない情報を含む貴重な史料ではあります。しかし、信長関係では第一選択肢となる太田牛一の『信長公記』(1610年頃に成立)に比べて、後世の史料になることから、『乙夜~』の記述が『信長公記』を押しのけて、真実として採用されることは少ないのですね。
ちなみに『乙夜~』よりも、明智光秀軍の武士の“生の声”として採用されるケースが多いのは『本城惣右衛門覚書』(ほんじょうそうえもん・おぼえがき/1640年頃に成立)というものです。
これによると、本城という武士は門番を殺し、門を開いて本能寺内に押し入ったものの、中は「ネズミ一匹もいない」ほど静まり返り、結局、本城は信長にも会えませんでした。当時の本能寺は、四方をそれぞれ約436メートルという長さの壁と水堀に囲まれ、まるで城塞のような巨大施設でした。そんな広い寺に信長は100人程度のお供だけを連れて宿泊しており、内部は人気(ひとけ)もまばらだったはずです。
しかし、本城が信長をそこで見つけられなかったということは、つまり、明智軍が攻め込む前に、信長が本能寺から消えていたという奇怪な事実を意味するわけですが、これについてはまた別の機会に。
『覚書』は本城が高齢になってからの聞き書きなので、記憶に混乱があるのかもしれませんね。いずれにせよ、本城の証言と、信長と明智軍の間で激しい戦闘があったという『イエズス会日本年報』や、宣教師フロイスによる『回想の織田信長』、そして、それらの記述をベースにして後にまとめられた『信長公記』の内容と大いに食い違うのは気になります。
何が正しく、何が虚偽なのか……偉大なスター・信長の死の真実は、歴史の闇に隠されてしまっているのです。
ちなみに今回話題になった『乙夜~』内には、例えば「寝乱れ髪の信長」という、他書とは異なる記述も複数あり、それが“新事実発見”のように報道されていましたよね。寝乱れ髪の信長……映像化すれば魅力的かもしれませんが、早朝に急襲されたらさすがの信長とはいえ髪の毛くらい乱れているだろうと『乙夜~』の制作者が推論しただけのような気も……。
歴史の研究で「面白い」もしくは「怖い」といえるのは、古文書だからといって、その記述を信頼できるかどうかは別という事実です。どうして「本能寺の変」という一夜だけの出来事なのに、ここまで証言が錯綜し、矛盾し合っているのか……。当事者たちがウソを言ったつもりはなくとも、人間の記憶とは年と共に変質してしまうものなのかもしれませんね。
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